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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.85
困難を抱える「当事者」が、生み出した新たな知や技術
社会をよい方向へ変える「当事者研究」の可能性に迫る
東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野
熊谷 晋一郎 准教授

「当事者研究」という取り組みについて聞いたことがあるだろうか? 心身に障害などを持つ「当事者」が、自分たち自身のことを観察・分析し、よりよい生活を送れるようにする方法論などについて、新たな仮説を生み出し発表する活動のことだ。この取り組みは、2001年に在野で始まり、今では大学などのアカデミアの研究者たちも「当事者研究」に注目している。
その第一人者といえるのが、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授だ。生まれながらの脳性麻痺で、車椅子生活を送る「当事者」の一人でもある。そんな熊谷准教授が、「当事者研究」に取り組み始めたのは2008年のこと。以来、アカデミアの世界で「当事者研究」の道を切り拓き続けている。

重度の障害者が、社会のなかでどう生きるか

「当事者研究」とは、いったい何だろうか?
それを語るには、それが生まれる背景を知る必要がある。熊谷准教授によれば、「当事者研究」は、「始まるべくして始まった」ものだという。

「当事者研究」が始まったのは、2001年のことだ。北海道浦河町にある、精神障害などを抱えた「当事者」たちの生活活動拠点「浦河べてるの家」(以下、「べてるの家」)が、「当事者研究」という言葉を明示的に掲げ、その活動に取り組み始めたことに端を発する。
「べてるの家」は、「当事者」たちが暮らし、働く、生活・労働共同体としての性格とともに、彼らをケアする人たちの共同体としての性格を持つ。「べてるの家」そのものは、1984年に設立され、精神障害者やアルコール依存などで生活に困難を抱える人たちをサポートしてきた。

「当事者研究」について語る熊谷准教授。自身も障害を持つ「当事者」として、強い使命感を持って研究に取り組んでいる。

そもそも「べてるの家」が生まれた背景には、「日本の精神医療が抱える大きな問題点がありました」と熊谷准教授は語る。
「重たい精神障害を持つ人は、地域社会から隔離され、精神病院に長く収容されていました。こうした隔離は、欧米では差別に当たるとして、人権の観点から問題視され、『脱施設』の運動が1970年代~80年代にかけて勃興してきました。その流れを受けて、日本のなかで先駆けて『脱施設』を進めてきたのが『べてるの家』です」

だが、「脱施設」とひとことで言っても、それを実現するのは簡単ではない。重度の障害を持つ人たちが、施設の外で、社会と交わりながら生きていこうとすると、大きな困難に直面することになる。「べてるの家」は、そうした人たちをサポートする場として活動してきたが、従来のアプローチに行き詰まりを感じ、新たな手法として掲げたのが「当事者研究」なのである。

「当事者研究」の2つの源流

より大局的に言えば、「当事者研究」の誕生の背景には、大きく2つの源流がある。
そのひとつが、「当事者運動」と呼ばれるものだ。障害者に限らず、黒人解放やLGBTなどのさまざまな“マイノリティ”集団が、人権や社会参加の観点から、1970年代~80年代にかけて世界で同時多発的に解放運動を起こしてきた。
こうした「当事者運動」のなかでも、「当事者研究」に強く影響を与えているのが「難病患者・障害者運動」だ。ここで重要になるのが、障害の「医学モデル」から「社会モデル」への転換だ。
「従来の『医学モデル』では、障害を医療で治すべきものとして捉えますが、『社会モデル』では、障害を抱える人が社会で活躍できないのは、社会のルールやシステムに問題があるからだと考えます。障害は、“皮膚の内側”ではなく、“皮膚の外側”にあると考えるのです。そして、マイノリティ性をもつ身体を“個性”と捉え、多様な個性を持った人たちが、等しく社会に活躍できるように、社会変革を目指したのが『障害者運動』です。精神障害者の『脱施設』もその流れの一つで、従来の障害に対する見方を180度変える、大きなパラダイム転換だったと言えるでしょう」

もうひとつの源流は、「依存症自助グループ」だ。アルコールや薬物などの依存者が集まって、弱さを抱えた等身大の自己を互いに正直にさらけ出し、同じような苦しみを抱えた他者と、自分の経験を分かち合うことで、自己を見つめ直し、他者との関係を再構築する取り組みだ。1930年代に、米国でアルコール依存者たちが始めた活動がそもそもの始まりだ。
この活動でも、依存症に対する見方を大きく変えるパラダイム転換があったと熊谷准教授は語る。
「このグループは、アルコールや薬物などの物質への依存は、他者や社会に対する信頼感を失い、他者に依存できなくなったがゆえに、物質に過度に頼るようになったという見解を打ち出しました。戦争体験や暴力の被害など、他者や社会への信頼を失った過去の経験が、その人を孤立させ、物質への依存に走らせる。依存症を、“他者に依存できない病”と定義したことが、やはり大きなパラダイム転換でした。そして、他者や社会との関係を再び取り結べるように、当事者どうしが集まって、自己の弱みを正直にさらけ出し、他者を信頼し、他者に依存することを経験的に学習していくのです。それにより、物質への依存から脱却できることを示した点が画期的でした」

研究室のメンバーとオンライン会議をする様子。熊谷准教授の右が綾屋紗月特任講師、左が支援者の中村伊織氏。綾屋特任講師も、自閉スペクトラム症という障害を抱える「当事者」の一人である。

そして「当事者研究」は、この2つの活動が合流する形で誕生した。その背景には、「両者が合流せざるを得ない事情があった」と熊谷准教授は言う。それというのも、それぞれのグループから排除された人たちがいたからである。
たとえば「当事者運動」では、“見えやすい障害”である身体障害に比べ、“見えにくい障害”である精神障害を持つ人たちが、運動から取り残されがちだった。また、社会変革を目指す性格上、集団の声を一つにまとめあげる必要があるのだが、その過程で「当事者」たちの多様性が捨象され、運動から取り残されてしまう人たちもいた。
「依存症自助グループ」の場合は、この活動が、もともと中産階級以上の白人男性を中心に始まったことが関係している。社会的地位のある白人男性には、依存症を克服すれば、社会に戻るべき場所があったが、社会的に排除されている女性やエスニックマイノリティの人たちはそうではなかった。彼ら彼女らは、一時的には依存症を克服できても、社会から再び差別的な扱いを受け、アルコールや薬物にもう一度手を出してしまうことが多かった。
「このように、どちらのグループからも排除されていた人たちが社会のなかで生きていけるように、『当事者運動』と『依存症自助グループ』の取り組みを融合させる形で、『当事者研究』が始まったのです」

「水と油」が混ざり合い、生まれた新たな方法論

この両者の融合は、ある種の“発明”に近いと言えるのかもしれない。というのも、この両者には、活動の目的や方法論で大きな違いがあったからだ。熊谷准教授も、両者の違いを「水と油」にたとえている。

まず大きく違うのが、これらの活動の社会との関わり方だ。
「当事者運動」は、障害の「社会モデル」にもとづいて、社会の変革を目指すものだ。民主主義のもとで変革を目指すには、“数”が物を言う局面があり、大勢の当事者の声をひとつにまとめ上げていく必要がある。すなわち、当事者一人ひとりの声を“我々”の声として意見をまとめ、社会に訴えかける。これを「シンフォニー(語りの統合)」と熊谷准教授は名付けている。
一方の「依存症自助グループ」は対照的に、グループでの活動を、等身大を許さない世俗的な社会と切り離して進めることに大きな特徴がある。グループ内での語りは完全非公開で口外が禁止され、それにより当事者が、自己の弱さを正直に語り合えるようにする。そして、弱さを抱えた自分自身を見つめ直し、他者に依存することを体験的に学習していくことを目指している。

もうひとつ、「当事者運動」と対照的なポイントは、「依存症自助グループ」では、当事者の多様な声を、多様なまま並列させることだ。「当事者運動」のように、声をひとつにまとめ上げることはしない。熊谷准教授いわく「言いっ放し、聞きっ放し」のグループミーティングを行うことで、弱さを抱えた自分を受け入れやすい土壌をつくってると言えるだろう。この手法を、熊谷准教授は「ポリフォニー(語りの陳列)」と呼んでいる。
「大まかにまとめると、『当事者運動』は社会変革を目指した“オープンなシンフォニー”であるのに対し、『依存症自助グループ』は、閉じたグループ内で唯一無二の自己開示や内省を行う“クローズドなポリフォニー”だと言えるでしょう」

「当事者研究」は在野で生まれた活動で、アカデミアでの先行研究は少ない。熊谷准教授は、間違いなくそのパイオニアの一人だ。熊谷准教授が道なき道を切り拓くことができたのは、「学際性や多様性を重視する先端研だからこそ」と熊谷准教授と語る。

両者を融合させた「当事者研究」では、当事者一人ひとりの語りを重視して、多様な声を等価なものとして扱う一方で、必ずその声を、“研究成果”として外部に公表する。社会に対して当事者たちの声を届けることで、社会の側が、たとえゆるやかではあっても、変化することを狙っているのだ。
すなわち「当事者研究」は、正直なポリフォニー(語りの陳列)の側面を「依存症自助グループ」から受け継ぎ、社会変化を目指して公開する側面を、「当事者運動」から継承している。当事者による自己の見つめ直しと社会変化の両方を目指す「当事者研究」のこのアプローチは、「オープンなポリフォニー(開かれた語りの陳列)」と言うことができるだろう。

 

小児科医から当事者研究へ、人生の舵を大きく切った理由

実は熊谷准教授は、当事者研究に取り組む前、小児循環器科の臨床医として医療の現場にいた。
生まれながらの脳性麻痺で手足が不自由な熊谷准教授が、そもそもなぜ医師を目指したのか。そして、小児科医から当事者研究の取り組みへと、大きなキャリアチェンジをどのような思いで決断したのだろうか。そう尋ねると、熊谷准教授は自らの生い立ちについて語ってくれた。
「私はもともと、大学に入るまでは数学者になりたいと思っていました。数学が大好きで、起きている間は脳性麻痺のリハビリをするか数学をしているか、そんな生活を送ってきました。そこから先は、言うなれば“よくある話”です。大学に入学し、自分よりはるかに数学ができる同級生たちを見て、職業として数学に携わることを断念したのです」

ではそこから先、なぜ小児科医を志したのか。それにも、大学入学に伴うある変化が関係していると熊谷准教授は振り返る。
「大学入学とともに、一人暮らしを始めたのが大きなきっかけです。それまでは、食事も入浴も、生活の一切を親に面倒を見てもらい、好きだった数学の世界の中で生きていました。そんな私を見て、同じ障害者の先輩から、『お前はそのままでいいのか?』と問い詰められました。『親から自立するならこのタイミングしかないぞ』とそそのかされたのもあり、大学入学を機に親元を離れることにしたのです」

とはいえ、手足が不自由な熊谷准教授が生きていくには、健常者の支援が必要だ。初めての一人暮らしは、生活を支援してくれる複数の介助者を探し、関係性をつくることからスタートした。
「振り返れば、親元を離れて一人暮らしを始めた日が、私の“本当の誕生日”だったと言えるでしょう。それまでは、生活のすべてを親に守られ数学に没頭する、“繭に包まれたような世界”の中にいました。一人暮らしを始め、親以外の人たちと積極的に関わるようになって気づいたことがあります。自分が、人と関わるのが好きだということです。人と関われる職業を探すなかで、自分自身が障害を抱えていることもあり、医師を目指すようになりました。そのなかで小児科を選んだのは、小児科の臨床の現場は、かつての自分が患者として通っていた場所であり、ノスタルジーのようなものを感じたからです」

生まれながらの脳性麻痺の影響で手足が不自由なため、研究に取り組むにも健常者のサポートが必要だ。自身が障害を抱える「当事者」であるからこそ、「当事者の知」と「専門家の知」の融合を担うことができるのだろう。

手足を自由に動かせない熊谷准教授にとって、医師として臨床の現場に立つことは、そう容易ではなかった。当初は採血するのにも苦労したが、熊谷准教授のさまざまな工夫や努力の甲斐もあって、次第に自分も周囲も臨床の現場に慣れていったという。
「一方で、このままずっと臨床の現場に居続けることが、果たして自分に可能なのかとの疑問も抱いていました。脳性麻痺を抱えていると、老化が早く進行することが分かっています。当時の私は30代で、なんとか仕事はできていましたが、加齢により老化が進行すると、臨床の最前線に果たして立ち続けることができるのかと、次第に思うようになりました」

人生に迷いを感じていたそのタイミングで、出会ったのが「当事者研究」だった。
かねてから交友関係のあったある人物が、「当事者研究」に関わっていることを知り、それをサポートすることになったのだ。その人物とは、いま熊谷准教授と一緒に当事者研究分野で研究を続ける綾屋紗月特任講師(肩書きは現在のもの)だ。綾屋特任講師は、自閉スペクトラム症という発達障害を抱えており、その「当事者」の立場から、「当事者研究」に取り組んでいることを聞かされたのだ。
そして、その「当事者研究」の成果を、綾屋特任講師とともに、在野の立場で本にして世に送り出した。このときの研究成果が評価されたこともあり、熊谷准教授は先端研に着任し、アカデミアの立場で「当事者研究」に携わり始めた。

小児科医から、学問分野としては未整備の新たな領域へ――。この大きな方向転換を、どのような思いで決断したのか。熊谷准教授は次のように語る。
「小児科医として臨床の現場にいたころから、医師としての“専門家の知”と、障害を持った“当事者の知”を、うまく融合できないかともどかしさを感じていました。ですので、綾屋先生から『当事者研究』について聞かされたときは、大きな可能性を感じました。私自身、障害を抱えた“当事者”であり、医師の国家資格を持つ“専門家”でもあります。だからこそ、“専門家の知”と“当事者の知”を、うまくつなげられるのではないかと思いました。『これは私がやるべきではないか』と使命のようなものを強く感じたのです」

アカデミアを、より開かれた場所に

熊谷准教授が、2009年にアカデミアで「当事者研究」の取り組みを始めてから10年以上が経った2020年のいま、熊谷准教授は、東大全学を舞台にある取り組みに着手している。
アカデミアを、今以上に多様な人々が活躍できる場へと変えるための、「インクルーシブ・アカデミア・プロジェクト」だ。先端研が中心となり、学内の他部局とも連携して進めている。

アカデミアを“インクルーシブな”場にするには、「構造面と文化面の2つの壁を、克服する必要がある」と熊谷准教授は言う。構造面は、物理的な環境や明示的なルールにより生じる壁で、文化面は、形に見えない人々の心や態度の壁のことだ。
「構造面では、たとえばキャンパス内を、車椅子や、目や耳が不自由な人でもスムーズに移動できるようにしたり、障害者でも実験機材を扱えるようにしたりすることを目指しています。構造面での取り組みは、先端研の並木先生(並木重宏准教授)が中心となって進めています。並木先生はもともと生物学の研究者ですが、難病で足が不自由になり、研究を思うように進められなくなったのをきっかけに、バリアフリーの研究や『当事者研究』にも関わるようになりました」

「インクルーシブ・アカデミア・プロジェクト」をともに進める並木重宏准教授(写真右)とのツーショット。並木准教授はもともと生物学の研究者だが、難病で足が不自由になったのをきっかけに、バリアフリーの研究に取り組み始めた。

文化面の担当をしているのが、先にも紹介した綾屋特任講師だ。文化面は、目に見えない心の問題なので、アプローチがより難しいと熊谷准教授も感じている。
「たとえば、私がかつて勤めていた病院は、構造面は、どんな患者さんが来ても対応できるようバリアフリーになっていて100点満点です。ですが、病院という組織のマインドは、障害者が医師になることをまったく想定していません。同じようなことが、大学という組織のなかにもあります。そのような心理的なバリアを解消していくことが、大学がより高度な知の創造の舞台となるためにも、必要なことだと思っています」

「インクルーシブ・アカデミア・プロジェクト」とは、「当事者研究」から得られた“当事者の知”を起点に、大学という場を、構造面と文化面で変えていく試みだ。大学の新たな姿が、ここ先端研から生まれようとしていると言えるだろう。

 
熊谷 晋一郎(くまがや しんいちろう)
東京大学先端科学技術研究センター 当事者研究分野 准教授
2001年3⽉東京⼤学医学部医学科卒業、同年5月同⼤同学部付属病院⼩児科研修医に就任。2002年6⽉千葉⻄総合病院⼩児科勤務医を経て、2004年8⽉から埼⽟医科⼤学病院⼩児⼼臓科病棟助⼿を務める。2008年に在野の立場で「当事者研究」に関する書籍『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』(綾屋紗月氏との共著、医学書院)を上梓。2009年9⽉東京⼤学⼤学院医学系研究科⽣体物理医学専攻博⼠課程単位取得退学、同年11⽉同⼤学先端科学技術研究センター特任講師に着任。2014年7⽉同⼤学⼤学院⼯学系研究科先端学際⼯学専攻博⼠号(学術)取得、2015年4⽉より現職。
 

東京大学先端科学技術研究センター
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/index.html

先端科学技術研究センター(先端研)は、1987年に「人と社会の安寧のために新しい科学や技術の新領域を開拓する」ことを目的に設立された。学際性・流動性・国際性・公開性という四つの基本理念を掲げ、文系と理系の垣根を越えた領域横断の研究活動を行っている。がんや生活習慣病の研究を行う生物医化学、工学や心理学など多方面からアプローチするバリアフリー研究、環境・エネルギー問題への取り組み、倫理や思想、社会システム、先端のアートやデザインに関わる研究など、40にのぼる専門分野での研究は多岐にわたる。

 

【取材・文:萱原正嗣 撮影:貝塚純一】

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