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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.60
華やかなりしモンゴル帝国のあと――
清に支配されたモンゴルから「見えてくる」こと
東北大学東北アジア研究センター
モンゴル・中央アジア研究分野
岡 洋樹 教授

歴史とは、人間の営みを、後世の人間が綴った記録である。新たな史料や遺跡の発見、さらにはそれらの解釈の変化によって、歴史は時とともに更新されていく。
歴史を研究する意義や目的とは何か――。東北大学東北アジア研究センターで清の時代のモンゴル史を研究している岡洋樹教授は、「歴史を知って理解すること、それ自体が目的」だと語った。岡教授の目には、歴史が、世界が、どのように映っているのだろうか。

遊牧民の歴史の実像に迫る

大量の資料に埋め尽くされた岡教授の研究室

日本は昔からモンゴル史研究に力を入れてきた。その蓄積から、遊牧民の歴史の研究において、日本は世界でも先端を行く。
モンゴルと聞いて多くの日本人が連想するのは、13世紀前半に「モンゴル帝国」を築きあげたチンギス・ハーン(1162 – 1227)の活躍だろう。モンゴル帝国は、チンギス・ハーンの孫のクビライ・ハーンが中国全土を支配して「元(大元)」を建国、領土をユーラシア大陸のほぼ全域に広げて繁栄の時代を迎えた。モンゴル史研究の花形も、チンギス・ハーンやクビライ・ハーンに代表される「征服活動」の歴史だ。

岡教授の研究テーマは、その華々しい時代が過ぎ去ったあと、「清」の時代のモンゴルの歴史だ。清王朝は、17世紀半ばから1912年まで中国全土とモンゴルを支配した。その母体は、中国東北部の満洲で、1616年に満洲人(女真族)が建国した「後金(こうきん)」である。後金はその後、中国全土とモンゴルを手中に収め、国名を清と改めた。すなわち清は、満洲人が、中国に住む漢民族(漢人)とモンゴル人とを支配した「征服王朝」である。

なぜ岡教授は、繁栄を誇ったモンゴル帝国の時代ではなく、支配下にあったモンゴルを研究テーマとするのか。その理由を岡教授は「史料が多く、研究しやすいから」と語る。
「モンゴル人は遊牧民ですから、文字史料をあまり残していません。そもそも文字を持たなかった期間も長く、民族に伝わる歴史や社会規範などが口伝で子孫に継承されることが多かったと考えられます。ウイグル文字をもとにしてモンゴル文字が制定されたのはチンギス・ハーンの時代のことで、モンゴル文字による当時の記録といえば、印章や石碑などに刻まれてわずかに現存する程度です」

現代のモンゴル国の位置(緑)。Picture by ASDFGHJ from Wikimedia (https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Mongolia_%28
orthographic_projection%29.svg
). Creative Commons 3.0

チンギス・ハーンやその子孫が築いたモンゴル帝国時代においても、モンゴル語史料だけではとても研究にならず、漢文やペルシア語による同時代史料と突き合わせ、ようやく当時の様相がおおまかに浮かび上がってくる。
だが、17世紀以降、清に支配されたモンゴルでは事情が異なっている。
「清は漢人王朝のやり方に倣い、文書行政を行っていました。そのやり方は、清に服属したモンゴルにも持ち込まれ、モンゴル語で文書行政が行われました。このため、清代のモンゴル語の公文書がたくさん残されています。私はそれを基本史料として研究をしています」
豊富に残された史料のおかげで、遊牧民の社会が直接見えてくる。どういう統治をして、それがどのような政治的行動に結びつくのか、細かいところまでわかると岡教授は語る。

 

清はどのように、モンゴルを統治したのか

清代モンゴル語の公文書を読み解いていくと、清のモンゴル統治のあり方が見えてくる。
清は満洲人による征服王朝だが、中国本土で漢民族を支配するため、漢民族による王朝であった「明」の行政制度を一部継承し、漢民族が使用する漢語を公用語として使用していた。支配地域であるモンゴルも、中国全土と同じ方法や言語で統治した方が効率がよさそうだが、当時の史料を見ると、モンゴルを中国全土とは異なる方法で統治していたことが分かる。それを端的に示すのが、行政文書に漢語を使わず、満洲語とモンゴル語を使っていたことだ。
「満洲語とモンゴル語は言語的に近く、モンゴル人にも満洲語は学びやすい言語でした。一方、伝統的に学校制度を持たないモンゴル人にとって、漢語や漢字の学習は非常に困難でした。清の皇帝は満洲語と中国語とモンゴル語に通じ、通訳を介することなく帝国全土の政治状況を把握していました」

漢語と満洲語、モンゴル語が併記された書籍について説明をする岡教授。

さらに清は、漢民族が住む中国本土とモンゴルとで、統治の方法も変えていた。漢民族が農耕定住を基盤とするのに対し、モンゴル人は定住せずに遊牧を行う。清はモンゴルで、遊牧社会に適した統治を行っていたのである。
遊牧社会のモンゴルには、子供が成人すると家畜や財産を分けて独立させる慣習がある。独立した子供は自立した経営単位を形成し、小さな単位に分かれていく。そのためモンゴルでは、このように流動的な小規模集団を束ねるために適した統治方法がとられていた。モンゴルの君主(ハン)は、民族すべてを直接統治するのではなく、小規模集団ごとに自治を任せ、集団間で利害が衝突する場合に調整役を務めていた。
清の皇帝はその方法をふまえ、モンゴルを専制的に直接統治するのではなく、現地のモンゴル貴族の領主に統治を行わせた。領主はモンゴル語で現地を統治する一方で、中央政府への報告や皇帝への上奏をおこなう際には満洲語を使った。
そのおかげで、満洲語とモンゴル語の資料が今も大量に残っている。漢語ではなく、満洲語やモンゴル語で書かれた史料で研究できる意義は大きい。漢語で書かれた史料には、漢文化のバイアスが否応なくかかっている。そうした色眼鏡なしに、当時のモンゴルで暮らしていた人たちの視点で、モンゴル社会の実像に迫ることができるからだ。
このような清のモンゴル統治のあり方を踏まえると、ひとつの大きな疑問が湧き上がってくる。
小さな集団に分かれていく力学を持つ遊牧民が、なぜ13世紀には一致団結して他国を圧倒する征服戦争を行えたのだろうか。そのヒントは、狩りのスタイルにあると岡教授は考えている。
「遊牧民は大掛かりな『巻狩り』を行います。巻狩りとは、大勢で狩り場を四方から取り囲み、獲物を追い込んで捕える形態の狩りです。この狩りを成立させるには、一糸乱れぬ行動をしなければなりません。そうでないと、獲物が逃げてしまう。非常に組織的な行動が求められました」
狩りで得た獲物は、狩りを主催したハンによって、参加者に公平に分配される。遊牧民は狩りのときにまとまり、普段は調整役であるハンの強い権力が表に出てくる。これは軍事行動にも言えることである。
ハンの下にまとまり敵に勝利すれば、戦利品は公平に分配される。普段は小さな単位で自立しているが、大きな利益が見込めるときは一致団結する。ここには遊牧民の統合の契機がある。清代の史料を丹念に読み解くと、モンゴル遊牧民の社会における分散と統合の契機、社会のガバナンスのあり方、清朝の統治の巧妙さが見えてくる。その知見は、かつての帝国を理解するためにも役立つのではないだろうか。

歴史の実像に迫るカギは、「書かれていないこと」にある

1990年代に岡先生がモンゴルに調査に訪れたときに撮影

通常、大学における東洋史学の研究は「漢文で記録された文書を読み解くこと」を手段とする。「漢文」とは中国語の古文のことだ。漢文が使用されたエリアは、中国本土を中心に朝鮮半島や日本列島などを含む、いわゆる漢字文化圏である。
東洋史学を専攻する者の多くは「漢民族が支配した中国王朝」をテーマに選ぶ。「漢」・「随」・「唐」・「宋」・「明」などだ。「元」や「清」のように、漢民族ではない民族による征服王朝や、漢民族の支配王朝であっても、中国本土ではないエリアを敢えて選ぶ研究者は少ない。
東洋史学のこうした事情を踏まえれば、清代のモンゴルを研究テーマに選んだ岡教授の特異性が際立っている。なぜ、人と違う道を選んだのだろうか。
「もともと歴史好きで、子どものころからいろいろな国の歴史について本で読んでいました。なかでも特に、遊牧民の歴史に興味を惹かれました。大学に入り、学部のときにモンゴルの研究をしている先生を訪ねたら、先生に言われたのが、『とりあえず、モンゴルに行ってきなさい』という言葉でした」

その言葉に従い、岡教授は学部時代の1981〜1983年に2年間、モンゴルの国立大学へ留学を決めた。当時のモンゴルは、「モンゴル人民共和国」という名の社会主義国だ。日本とモンゴルの国交が結ばれたのは1972年のこと。それをきっかけに、モンゴル研究者のなかでは、現地に行って学んで来ようという機運が高まっていたが、ときの世界は冷戦下である。一介の学生が社会主義国へ留学するのは異例中の異例だった。

岡教授が留学していたモンゴル国立大学。像は創立者のチョイバルサン。

岡教授が留学していたモンゴル国立大学。像は創立者のチョイバルサン。

「2年間の留学中、1年目にモンゴル語を、2年目に歴史を学びました。モンゴル語を話せるようになるまで覚え、それによって研究をするという手法を得たことが、何十年と経った今でも役立っています」
現地の言葉を覚え、現地の研究者から直接学ぶ機会を得たことが、その後の岡教授の進む道を決めた。当時のモンゴルでは、日本であまり行われていなかった清代モンゴルの研究が盛んだった。現地の研究者から、清代モンゴル研究の意義や手法を直々に教わった岡教授は、帰国後、それを自身の研究テーマにしたのだ。

岡教授が研究に使用するモンゴル語の古文書は、モンゴル国の文書館に保管されており、持ち出しができない。そのため、岡教授は今も毎年のように現地へ足を運び、文書館にこもって史料を読み漁る。保管された史料の数は膨大で、すべての史料に目を通すのはおよそ不可能だ。調査の具体的なテーマを決め、その出来事が起こった年次と場所を手がかりに、関連する情報を探していく。それが、この時代のモンゴルを研究する上での方針だ。
「現代の役所の文書をイメージしてもらえばわかるかと思いますが、資料のひとつひとつには大したことは書かれていません。また、事実だけが書かれているとも限りません。公文書は、将軍や総督など、特定の役職に就いた人物が書くものです。書かせた人間の言いたいこと、都合のいいことしか記録には残りません」
大量の史料を読み、ときには性質の異なる史料を多角的な視点で分析する。こうしてはじめて、モンゴルの社会像を読み解くことができるのである。

歴史研究を通じて何が「見えてくる」のか

岡教授は、一貫して続けてきた清代モンゴル研究における知見をもとにして、近代の東北アジアについても確固たる見方を持っている。
「19世紀の末から20世紀半ばにかけて、日本は大陸に進出し、アジア諸国と関わりました。そうした経緯やそこで起こったいろいろな事件は、多くの場合、日中関係史の枠組みのなかで論じられます。ところが、日中関係の間には、モンゴルが存在しています。当時の東北アジアを論ずるうえで欠かせない『満蒙』というキーワードは、満洲とモンゴルのことを指しています。当時の日本は満洲とモンゴルを常に意識しており、両地域の存在は、東北アジアの国際政治の焦点でした」
1912年に清が滅亡すると、広大な領土と多様な民族をまとめることができなくなり、それを契機にモンゴルで独立の機運が高まった。そこに絡んだ日本やロシアの進出は、「モンゴル問題」という形をとった。清代のモンゴルのあり方を踏まえて考えれば、モンゴルの歴史的な事情や構造が日本やロシアの動き方を決定していたと言える。

岡教授が編纂した特別装丁の本とモンゴル語の資料

歴史を研究する魅力は何だろうかと、最後に岡教授に尋ねてみた。
「資料を読み解いていけば小さな発見がいくつもあり、それはそれで面白いのですが、発見すること自体にあまり大きな意味はありません。資料から得た情報が全体として集まったときにどのような理解に至ることができるか。『わからないことがわかる』。それを積み重ねることで、物事に対する見方が変わることが歴史研究の面白さです」
岡教授の博士論文をまとめて出版した本には、「もう一つの清朝史がここにある」という書評が寄せられた。従来考えられてきた中国王朝としての清とは全く違った、モンゴルにおける清がここに示されていたからだ。
中国語の史料にもとづいた清朝研究では見えないものが、モンゴル語の資料から見えてくる。「漢文」の世界の研究者には、それが目新しく映ったのかもしれない。

岡教授は、インタビューを通じて頻繁に「見えてくる」という表現を使った。
歴史研究それ自体は、現代の政治や外交の問題を特効薬的に解決するわけではない。だが、歴史研究で用いられる手法や視点は、現代を生きる私たちの助けにもなるはずだ。歴史研究の手法とは要するに、「膨大な情報群から必要なデータを探し出し、全体像を俯瞰する」ことだ。大量の情報が溢れる現代においては、情報を見極める一人ひとりの力が問われている。 


岡 洋樹(おか ひろき)
東北大学 東北アジア研究センター 教授
1959年生まれ。早稲田大学第一文学部卒、同大学院文学研究科単位取得退学。2005年博士(文学)取得。早稲田大学文学部助手、日本学術振興会特別研究員(PD)、東北大学東北アジア研究センター助教授などを経て1996年より現職。主な著書は『清代モンゴル盟旗制度の研究』(東方書店)など。
 

東北大学東北アジア研究センター
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/

中国・朝鮮半島・日本を含む東アジアと、モンゴル・カザフスタン・ロシアを含む北アジア地域を併せた新たな地域概念としての東北アジア地域を対象とする研究機関として1996年に設置。東北アジアを枠組みとして、歴史的・現代的視点から、自然科学と人文社会科学の手法を駆使した文理諸分野連携の態勢で研究している。

 

【取材・文:寒竹泉美 撮影:原淵將嘉】

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