「未来の都市」と聞いて、どんな風景を思い浮かべるだろう?
九州大学マス・フォア・インダストリ研究所の藤澤克樹教授は、「都市OS」によって運営される未来都市を構想する。「マス・フォア・インダストリ」とは「Mathematics for Industry」、つまり「産業のための数学」という意味である。
都市OSとは、都市が生み出すビッグデータを高度な数理モデルを駆使して解析し、包括的に都市を運用するシステムのことだ。特定の都市に起きる現在から未来に起きるさまざまなこと――人の移動や高齢化、健康状態、エネルギーの需要・供給など――を再現、予測し制御することを可能にする。「スマートシティ」の実現はもちろん、これまでの都市のあり方を根本的に変えてしまうほどのインパクトを持つテクノロジーだと言えるだろう。
昨今、未来の都市のあり方として、「スマートシティ」が模索されている。スマートシティとは、テクノロジーを活用した、環境負荷が低くエネルギー効率の高い都市のことだ。言葉を換えると「環境配慮型都市」のことである。
さまざまな都市計画の専門家や、グーグルのような巨大IT企業が提唱するスマートシティ構想では、都市が生み出す多種多様な「ビッグデータ」の活用が前提となっている。交通網や金融、流通、人々の消費活動などが生み出すビッグデータを解析し、サービスの高効率化や都市の環境負荷の低減などを目指すというのだ。
「都市OSは、ビッグデータを活用し、都市の運用を効率化する機能を持つことが想定されます。具体的には、ヒト・モノの移動などの混雑状況の予測、商業施設においては、商品がどの程度の値段で販売されるべきかといった価値判定、有事の際の避難誘導などが挙げられます」と藤澤教授。
都市はビッグデータの塊だ。都市には膨大な量の防犯カメラがあり、それらは防犯の役に立つばかりでなく、行き交う膨大な人々の「人流」を記録している。また、人々がどこへ行くにも、何をするにも携えている携帯電話をはじめとするIoTデバイスには、消費や娯楽、さらには個人の生活に関する膨大なデータが記録されている。さらに各自治体には「域内総生産」などの膨大な統計データが蓄積されている。
これら特定のステークホルダーによって所有されているビッグデータの相互利用を促し、解析し、都市政策を含む都市の実際の運用に役立てようとするのが、都市OSの基本概念となる。
都市OSの実現に欠かせないものが、「サイバーフィジカルシステム(Cyber Physical System:CPS)」という概念だ。
「サイバーフィジカルシステムが目指すのは、サイバー空間とフィジカル空間(現実空間)の統合を進めることです。実社会(現実空間)が生み出すビッグデータにもとづきサイバー空間で最適化やシミュレーションを行い、得た知見をフィジカル空間へフィードバックする。それにより、社会的機能を向上させてゆきます。実際、私たちはスマートフォンでSNSやGoogle検索を活用し、サイバー空間から得た情報にもとづきフィジカル空間で行動し、フィジカル空間で得た情報をサイバー空間に書き込んでいます。いわば、サイバー空間とフィジカル空間のあいだで情報を“出し入れ”し、生活やビジネスの利便性を向上させてきました。私たちはそれを都市や社会規模にまで大きく拡張することを目指しています」
サイバー空間とフィジカル空間をより社会的かつ多様な分野で統合し、新たな産業や公共システムの最適化などのメリットを生み出していく。そのための土台を担うのが、高度な数理モデルによって実現可能なサイバーフィジカルシステムなのだ。
サイバーフィジカルシステムは、人流の予測・最適化において実用化への歩みを進めている。活用の一例となるのが、2020年の東京オリンピックにおける、諸会場の人の移動の予測・最適化だ。
東京オリンピック会場予定地であるさいたまスーパーアリーナ及び周辺地域において、人流のシミュレーションを行う移動最適化システムの実証実験が、内閣府主導のもと行われた。この実証実験では、人流のシミュレーションを行うシステム「移動最適化システム」の評価・検証が行われた。このシステムは、防犯カメラの画像や携帯電話ネットワークの位置情報などを活用した、個人を特定できない「人数データ」にもとづいているのが大きな特徴だ。
「人が動いていく様子を計算で再現する人流のシミュレーションは、活用幅が非常に広い。混雑の予測や解消はもちろん、有事の際の避難誘導にも活用できます。それはつまり、都市における商業の活性化から、公共安全のシステムにまで活用することができます。政府や関係企業・研究機関とともに、2020年をサイバーフィジカルシステムの社会応用を広げ、都市OSとしての一歩を踏み出すための契機とすることを目指しています」
藤澤教授らは、移動最適化システムによって、南海地震による津波が大阪市の淀川流域に及んだ場合、どれほどの被害を及ぼすかを計算した。
また、藤澤教授らの研究グループは、配送業や小売業、製造業などをはじめとするさまざまな企業と協業を行っている。たとえば物流配送センターでは、最適化計算とシミュレーションによって作業フローを最適化すべく、動線や建物などを設計した。
サイバーフィジカルシステムにおいて、サイバー空間のデータを解析するためには高度な数理モデルの運用が欠かせない。藤澤教授は、サイバーフィジカルシステムを下支えする数理モデルに、「グラフ理論」の活用を掲げている。グラフ理論は、対象を「点」と「枝」で記述して計算を行う応用数学だ。
「グラフ理論でビッグデータを解析する利点は3つあります。1つ目はシンプルであることです。点と枝という非常にシンプルな組み合わせによって、道路交通網からソーシャルネットワークにおける人の繋がりまで、さまざまな対象を計算することができます。2つ目は、ビッグデータのリアルタイム解析に向いていることです。次々に新しいデータが生まれるカメラ映像などの動的データの解析には、新しいデータを付け足したり、消したりする処理が行いやすいグラフ理論が有効です。3つ目は、他の非常に高度な数理モデルを組み込み可能な拡張性がある点です。道路の混雑状況において、渋滞を加味した到着時間計算はグラフ理論だけでは不可能です。その際、グラフ理論に微分方程式の複雑な数理モデルを組み込むことで計算が可能となります」
グラフ理論を用いた計算は、すでに社会で活用されている。たとえば革新的なサイバーセキュリティの構築や、より多層化され複雑化するニューラルネットワークの技術にもグラフ理論は応用されている。
これらの大規模データ処理が必要なシステムでは、グラフの高速な探索処理を行うソフトウェアが欠かせない。藤澤教授らは、データが大規模化・複雑化する時代の要請に応えるべく、次世代のスーパーコンピュータ上で動くグラフ探索ソフトウェアの開発を2011年から進めている。
同ソフトウェアをスーパーコンピュータ「京」の上で動かしたときの性能は高い。大規模グラフ解析に関するスーパーコンピュータの国際的な性能ランキング「Graph500」において、2014年から2017年にかけて6期連続で(通算7期)世界ランキング1位を獲得している。
「技術的には、現在でも都市OSを、市町村などの地域から日本全域などの国単位、さらにはEUなどの地域統合体にまで広げて運用することが現実的な視野に入ってきています。実現に向けて課題となるのは、個人情報に関する法的な問題をいかに解決するか。そして、各自治体・事業体と協働し、利益を生み出しながら持続可能な運用ができるような仕組みをいかに構築できるかです」
たとえば、日本でもっとも正確に人の分布を把握できているのは携帯電話キャリアだと藤澤教授は話す。携帯電話にはGPSが組み込まれているため、携帯電話キャリアにとって、どんなユーザーがどこに居て、何をしているかが一目瞭然だ。これらのデータを適切に活用できる体制が法整備とともに整えば、都市OSの実現にとって大きな一歩となる。
有事の際、こうした特定の企業によって所有されているデータは役に立つ。たとえば2016年の熊本地震の際、行政側は人の分布が適切に把握できていなかったため、結果として、避難所の適切な利用を促すことを困難にした。しかし携帯電話キャリアは、人の分布が把握できていた。現在も、防災に関連したデータ活用の取り組みは進んでいるが、個人情報保護の観点から、都市OSとして適切に効果を発揮する実践的な枠組みの構築にはまだ時間がかかりそうだ。
もうひとつの課題は資金だ。都市OSを実現するためには、一企業や税金を財源とする自治体の資金力だけでは不可能だ。持続的な運用を可能にする協働体制づくりも積極的に進められなければならない。藤澤教授は、自治体・事業体の協力体制のもと、さいたまスーパーアリーナ及び周辺地域における移動最適化システムの実証実験を行ったが、こうしたステークホルダーの垣根を超えた体制づくりが都市OSには欠かせない。
「シンガポールなどでは、ビッグデータの社会応用が、非常に実践的な実証実験のもとに進められています。私たちはこれからの未来、ビッグデータ解析を社会レベルに活用することでより豊かになる人々の姿を目にしていくことになります。今後は日本も個人情報の取扱いに関する議論を進め、体制構築のための着実なステップを進んでいくことが期待されます」
都市OSの実現には政府も前向きだ。政府が策定した『第5期科学技術基本計画』において、我が国が目指すべき未来社会の姿が提唱されており、そこでは都市OSの構想が前提となることが示唆されている。
その姿は「Society 5.0」と銘打たれ、「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」だと記されている。狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)の次の社会を指す概念だ。
かつてはSFの中に存在していたサイバー空間は今、フィジカル空間と融合し、私たちの未来の都市をつくり、社会そのもののあり方を刷新しようとしているのだ。
多様な数学研究を基礎に置く、アジア初の産業数学の研究所として,平成23年4月1日に創設。平成25年4月1日、文部科学大臣から文部科学省共同利用・共同研究拠点「産業数学の先進的・基礎的共同研究拠点」に認定。数学テクノロジー先端研究部門、応用理論研究部門、基礎理論研究部門、数学理論先進ソフトウェア開発室、オーストラリア分室、先進暗号数理デザイン室、富士通ソーシャル数理共同研究部門、連携推進・技術相談室、客員部門を持つ。純粋・応用数学の知見を産業界に幅広く適用し、未来技術の創出基盤を生み出すための数学の新研究領域「マス・フォア・インダストリ(Mathematics for Industry,略称MI)」の発展に幅広く寄与するための研究機関である。
【取材・文:森旭彦 撮影:山本薫】