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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.16
和漢の伝統生薬で、アルツハイマー病に挑む
富山大学 和漢医薬学総合研究所
東田 千尋 准教授

日本と世界が、認知症対策に苦慮している。認知症の治療と介護に伴う社会コストは膨大で、患者数は増加の一途を辿る。対策は急がれているが、効果的な治療薬はまだ開発されていない。
認知症を引き起こす疾病のなかでも、アルツハイマー病がもっとも症例が多く、半数以上を占める。富山大学和漢医薬学総合研究所の東田千尋准教授は、他に類を見ないアプローチでアルツハイマー病の治療薬研究に取り組む。手にする武器は、同研究所が誇る和漢の伝統生薬だ。

アルツハイマー病を食い止めろ

認知症は、日本と世界が抱える大きな課題のひとつだ。
厚生労働省の調査では、2012年時点で認知症患者の数は約462万人、高齢化の進展とともにその数はますます増え、2025年には現状の1.5倍以上の700万人を超えると見込まれている。認知症の前段階である軽度認知障害(MCI)の患者も含めると約1,300万人となり、65歳以上の高齢者の3人に1人、国民全体で見ても1割以上が認知機能に何らかの障害を抱えることになる。目を世界に転じても、2015年時点で約4,680万人、2030年には約7,470万人、2050年には1億3,150万人に上るとされる(「国際アルツハイマー病協会」発表)。
認知症の治療や介護にかかる経済コストは膨大で、OECDは全世界で毎年6450億ドル(1ドル110円換算で約71兆円)が費やされていると発表した(2015年3月)。患者の家族や親族にのしかかる精神的負担も大きい。慶応義塾大学医学部は、2014年の日本における認知症の社会的費用を14.5兆円に上るとの推計を発表した(2015年5月)。その内訳は、医療費1.9兆円、介護費6.4兆円、家族らによる無償のインフォーマルケア6.2兆円である。

認知症とは、脳の神経細胞が損傷し、日常生活を送るのに必要な認知機能が低下する症状全般を指す。典型的には記憶障害を伴うが、認知症の記憶障害は単なるもの忘れとは異なり、自分の体験そのものをまるごと忘れてしまうことを指す。たとえば、数日前の食事で何を食べたか思い出せないのはもの忘れだが、食事をとったこと自体を忘れてしまうのが認知症による記憶障害だ。
認知症の原因となる疾患にはさまざまなものがあるが、なかでも症例の6~7割を占めるとされるのが「アルツハイマー型認知症(アルツハイマー病)」だ。いずれの疾患も効果的な治療法は確立されていないが、大半を占めるアルツハイマー病の対策が特に急がれている。
そのアルツハイマー病に、他では類を見ない独創的なアプローチで挑む研究者がいる。「越中富山の薬売り」、「富山の置き薬」として、江戸時代から300年以上続く製薬・売薬の歴史を持つ富山の研究者だ。

富山大学和漢医薬総合研究所附属の民族薬物研究センター民族薬物資料館。館内には約28,000点の生薬が所蔵されており、全国からサンプル提供の依頼が届く。

富山大学和漢医薬総合研究所附属の民族薬物研究センター民族薬物資料館。館内には約28,000点の生薬が所蔵されており、全国からサンプル提供の依頼が届く。

自身の研究について語る東田准教授。その語り口からは、他にはないアプローチで取り組む和漢研での研究に、自信と誇りを抱いているように感じられた。

自身の研究について語る東田准教授。その語り口からは、他にはないアプローチで取り組む和漢研での研究に、自信と誇りを抱いているように感じられた。

その人とは、富山大学和漢医薬学総合研究所(以下、和漢研)の東田千尋准教授である。和漢研は国立大学で唯一、伝統医学や伝統薬物を専門に研究する機関であり、東洋医学と西洋医学を融合する研究にも積極的に取り組み、東田准教授も東洋の伝統薬物でアルツハイマー病の治療薬研究に取り組む。

東田准教授は、アルツハイマー病の特徴を次のように語る。
「アルツハイマー病は、1906年にドイツの精神科医アルツハイマー博士によって発見されました。脳の神経細胞の隙間にできる『老人斑』と、神経細胞を構成するタンパク質が変性して固まりもつれる『神経原線維変化』が大きな特徴です。『老人斑』の正体は、その後の研究により、『アミロイドβ』と呼ばれるタンパク質が蓄積されたものだと突き止められました。脳機能は、網の目のようにつながった神経細胞回路を、情報伝達物質が行き交うことで維持されています。アミロイドβが神経細胞の隙間にたまると、この神経回路網が破壊され、それにより記憶障害が起こると考えられています」

漢方薬に秘められた力

脳内のアミロイドβの蓄積がアルツハイマー病を引き起こすのであれば、アミロイドβの蓄積を防げばアルツハイマー病の発症を防げるはずだ。その発想で、アミロイドβを減少させる薬物候補が臨床試験に進んできているが、治療の効果をあげた成功例はまだない。その理由を、アミロイドβを減らすだけではアルツハイマー病の症状を改善することにはつながらないからだと東田准教授は指摘する。
「私たち人間の体を構成する細胞は、日々新しい細胞と入れ替わっています。怪我をしても日が経つと元に近い状態になるのは、皮膚の細胞が入れ替わり再生されているからです。脳や脊髄を構成する中枢神経の細胞はその例外で、私たちは生まれ持った神経細胞と一生付き合っていかなければなりません。神経細胞は損傷しても修復・再生されることがなく、そのために記憶障害が引き起こされます。アミロイドβは神経細胞を破壊する原因物質ですが、アミロイドβを減らしても、壊れた神経細胞回路が元に戻ることはありません。そのため、アルツハイマー病の進行を食い止めることはできても、認知機能を改善することはできないのです。なお、既に医療現場に導入されている承認薬は、神経細胞を行き交う情報伝達物質を制御する働きを持ちます。それにより記憶能力の回復を図るわけですが、病態の進行を止める作用はなく、こちらも根本的な治療につながるものではありません」

生薬には、植物性・動物性のほか、鉱物性のものもある。奥に見えるのはクマの標本。クマの胆嚢(たんのう)、通称「熊の胆(くまのい)」が生薬となる。消化器系全般の薬として今も使われている。

生薬には、植物性・動物性のほか、鉱物性のものもある。奥に見えるのはクマの標本。クマの胆嚢(たんのう)、通称「熊の胆(くまのい)」が生薬となる。消化器系全般の薬として今も使われている。

民族薬物資料館に展示される「補気薬」の解説をする東田准教授。研究に用いた「加味帰脾湯」には、「補気薬」の生薬が多数配合されている。

民族薬物資料館に展示される「補気薬」の解説をする東田准教授。研究に用いた「加味帰脾湯」には、「補気薬」の生薬が多数配合されている。

損傷した神経回路網をいかにして修復させるか。東田准教授はその点に着目して20年近く研究に取り組んできた。神経薬理学を専門とし、神経細胞の振る舞いに変化を与える薬理活性物質を研究してきた東田准教授は、1995年に富山医科薬科大学和漢薬研究所(富山大学和漢医薬学総合研究所の前身組織の一つ)に着任し、漢方薬をはじめとする和漢の伝統薬物と初めて出会った。そのときの驚きと感動を振り返り、東田准教授は次のように語る。
「伝統薬物は生理活性物質の宝庫です。病気の予防や治療に長年使われてきた歴史は、効果と安全性の両方が認められてきた証と言えます」
そのころから、損傷した神経回路網を修復する生理活性を持つ伝統生薬を探す日々が始まった。なお、「生薬」とは植物や動物、鉱物などからつくられる薬のことで、漢方薬は複数の生薬を配合してつくられている。

和漢研附属の民族薬物資料館には、世界各地の伝統生薬が約28,000点収蔵され、全国各地からサンプル提供を求められるほどだ。その膨大なストックのなかから、東田准教授は、「補気薬」と呼ばれる生薬にまず狙いを定めた。
「『補気薬』とは気の不足を補うための生薬で、要するに弱った体を元気にするためのものです。現代風に言えば滋養強壮剤に相当します。過去の文献や知られている薬効などを頼りに、『補気薬』に神経回路網を修復する働きがあると当たりをつけ、実験で試してみたら予想以上の効果がありました」

最初に手応えを得たのは、「加味帰脾湯(かみきひとう)」と呼ばれる漢方薬だ。「人参(にんじん)」、「遠志(おんじ)」、「黄耆(おうぎ)」、「茯苓(ぶくりょう)」などの「補気薬」を多く含む。現代でも医療用漢方薬として貧血や不眠症、神経症に使用され、古くは健忘症の治療薬として使われていたこともあるという。
この「加味帰脾湯」を、遺伝子操作でアルツハイマー病を発症させたマウスに15日間経口投与したところ、マウスの記憶に顕著な変化が見られた。マウスの脳内を調べてみると、記憶障害の根本原因と考えられる神経回路網の断裂が軽減され、神経原線維変化も減っていることが確認された。それが2011年の成果だった。

蘇った神経回路網

続いて東田准教授は、伝統生薬に含まれる化合物が、さらに高い神経回路網修復機能を持つことを発見した。それが、「山薬(さんやく)」と呼ばれるヤマイモ類に含まれる「ジオスゲニン」という成分だ。
「ジオスゲニンを1日1回20日間、アルツハイマー病を発症したマウスに注射で投与したところ、マウスの記憶が加味帰脾湯よりも顕著に改善されました。さらに、マウスの脳内を調べてみたところ、アミロイドβの蓄積と神経原線維変化がともに減少し、損傷した神経回路網が再構成されていることも確認できました」
この成果を2012年7月に発表すると、テレビや新聞などで、アルツハイマー病治療に光が見えたと数多く報じられた。伝統生薬の持つ力に、世の中も注目し始めた。
ここでひとつ補足しておくと、ヤマイモ類に含まれる「ジオスゲニン」の薬効は、普段の生活で食べる程度ではほとんど見込めないという。東田准教授によれば、「1日10kgヤマイモを食べても効果が出るかは分からない」とのことだ。

和漢の伝統生薬がアルツハイマー病改善につながる効果を実証した東田准教授は、これまでの研究成果を応用し、新たな研究テーマにも着手する。損傷した脊髄を修復する化合物を伝統薬物のなかから探索する研究を始めたのだ。
「脊髄は、背骨の中にあって脳と体をつなぐ中枢神経です。脊髄を損傷すると、脳からの司令が末端に行き届かなくなり、あるいは末端の感覚が脳に行き届かなくなり、運動機能が麻痺します。脊髄の神経細胞も、脳の神経細胞と同様、修復・再生されることはなく、脊髄損傷においても、神経細胞をいかに修復させるかが治療のカギを握ります」
そこで、脳の神経細胞修復に効果のあった「補気薬」と同等の伝統生薬に狙いを定め、損傷した脊髄の神経細胞を修復可能な化合物の探索を始めた。
その結果、東田准教授は伝統生薬に含まれる成分をもとに新たな化合物を生成し、損傷した脊髄を修復する効果があることを確かめた。
「インドの伝統医学アーユルヴェーダでは、『アシュワガンダ』と呼ばれる生薬が、漢方の補気薬のように滋養強壮剤として使われてきました。その成分を分析すると、神経細胞を修復・再生させる生理活性を持つことが明らかになりました。その成分をもとに、新たな化合物『デノソミン』を合成しました」

民族薬物資料館に展示される「アシュワガンダ」と、それを眺める東田准教授。「アシュワガンダ」に含まれる成分から新化合物「デノソミン」を合成し、損傷した脊髄を修復させる働きがあることを確認した。

民族薬物資料館に展示される「アシュワガンダ」と、それを眺める東田准教授。「アシュワガンダ」に含まれる成分から新化合物「デノソミン」を合成し、損傷した脊髄を修復させる働きがあることを確認した。

この「デノソミン」を、脊髄を損傷して後ろ足が麻痺したマウスに2週間投与したところ、神経突起の修復・再生が見られ、マウスは足を動かせるようになった。さらに、その修復メカニズムの研究を進めると、驚きの事実が明らかになったと東田准教授は言う。
「脊髄を損傷すると、神経細胞周辺に、『アストロサイト』と呼ばれる細胞が集まり、そこから神経細胞の修復・再生を阻害する物質が放出されます。そのため、『アストロサイト』は“悪玉”の細胞と考えられていましたが、『デノソミン』を投与したマウスでは、この『アストロサイト』から、神経突起の修復・再生を促進する『ビメンチン』というタンパク質が分泌されるようになりました。いわば、『デノソミン』は、“悪玉”だった『アストロサイト』を“善玉”に変えるスイッチのような役割を果たしていることが判明したのです」
このときの成果も、効果的な治療法のない脊髄損傷を改善する糸口として注目を集め、これまでたびたび新聞各紙で報道されてきた。伝統薬物は三度、難病治療につながる新たな扉を開いたのだ。

伝統から生まれる新たな創薬

東田准教授が伝統生薬に秘められた力に気づいたのは、一人の師の存在が大きい。その師とは、和漢研の教授を務める小松かつ子氏のことである。富山医科薬科大学着任後、生薬学を専門とする小松教授と出会い、生薬とは何かをゼロから学んだ。
「着任当初は生薬の名前の読み方も分からないところから生薬のイロハを小松先生から教わりました。生薬学とは、生薬の品質や薬理作用を研究するだけでなく、生薬の分類や栽培についても研究する生薬の総合学問です。日本の医師の8割~9割は、臨床現場で何らかの漢方薬を処方しているというデータがあります。現代人にとっても漢方薬は身近な存在ですが、日本で使われる生薬の9割は中国からの輸入に頼っているのが現状です。ただ、生物資源をこの先いつまで輸入し続けられるのか、不透明感も強まっています。日本で使う生薬を、日本で栽培できるようにするのも、生薬学の重要な使命の一つです」

ラボで研究室所属の学生たちと。指導教官の立場になった今も、自分で手を動かし、実験に取り組む。自らの実践を通じて学生を育てるのが東田准教授流の指導方針だ。

ラボで研究室所属の学生たちと。指導教員の立場になった今も、自分で手を動かし、実験に取り組む。自らの実践を通じて学生を育てるのが東田准教授流の指導方針だ。

小松教授から伝統生薬の薫陶を受け、東田准教授は創薬の未来を切り拓く新たな道を歩み始めた。効果的な治療薬のない疾病に対し、伝統薬物のなかから治療薬候補を探し出し、そのメカニズムを解き明かす。そのアプローチを、東田准教授は「伝統薬物based創薬」と呼び、企業と共同で新しい治療戦略の研究開発にも取り組んでいる。
「ヤマイモ類から抽出したジオスゲニンや、アシュワガンダの薬効成分から合成したデノソミンは、新薬の候補になりえます。また、製薬業界では既存の承認薬を、別の疾病に対して活用する『ドラッグ・リポジショニング』の動きも盛んです。たとえば、加味帰脾湯の神経細胞修復効果が臨床研究で実証されれば、それをアルツハイマー病の改善薬として使うこともできます。さらには、生薬を元にしたもうひとつの出口戦略も進めています。生薬は、ときに食品としても使われ、その安全性は長い歴史のなかで経験的に確かめられています。生薬の機能を活かした機能性食品を開発すれば、病気の発症や重篤化を防ぐことも期待できます。新薬の承認には時間や投資もかかり、効果が期待された新薬候補でも、審査を通らないこともありえますが、コストとリスクの低い方法で、伝統生薬の力を社会に還元する道筋も探っています」

富山県の医薬品の生産額は全国2位だ(平成26年実績)。300年の伝統を受け継ぎ、産官学一体となって「薬都とやま」の実現を目指す富山県にとっても、和漢研と東田准教授の存在は心強いことだろう。伝統のなかから、新たな創薬の動きが芽生えつつある。

 

東田 千尋(とうだ ちひろ)
富山大学 和漢医薬学総合研究所
神経機能学分野 准教授
1989年北海道大学薬学部製薬化学科卒業、1994年に同大学大学院薬学研究科博士後期課程薬学専攻を修了し博士(薬学)を取得。1995年富山医科薬科大学(現・富山大学)助手に就任し、1997年に米国国立衛生研究所に短期留学。2005年、富山大学と富山医科薬科大学、高岡短期大学の3大学統合に伴い、富山大学和漢医薬学総合研究所助手、2007年に同研究所助教、2010年より現職。2006年に日本神経化学会最優秀奨励賞、2014年に和漢医薬学会学術貢献賞、2016年に日本薬学会学術振興賞を受賞。

富山大学和漢医薬学総合研究所

日本で唯一の和漢薬専門の研究機関である。伝統医学や伝統薬物の病気の予防・治療効果の基礎研究から、生薬の資源開発、臨床研究まで、伝統医学や伝統薬物に関する研究を一気通貫で行う。伝統医学や伝統薬物を先端科学技術によって評価し、東洋医学と西洋医学の融合を図ることで、新たな医薬学体系の構築と自然環境の保全を含めた全人医療の確立に貢献することを使命とする。1963(昭和38)年に富山大学薬学部の附属施設として設置された「和漢薬研究施設」(後に富山大学附属の「和漢薬研究所」へと改組)と、1978(昭和53)年に設立された富山医科薬科大学の「和漢薬研究所」を前身とする。2005(平成17)年、富山大学と富山医科薬科大学、高岡短期大学の3大学統合に伴い、富山大学と富山医科薬科大学の「和漢薬研究所」を統合・改組する形で「和漢医薬学総合研究所」が設立された。民族薬物資料が保有する約28,000点の生薬は、全国から提供を求められる。

【取材・文:萱原正嗣/撮影:大島拓也】

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