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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.106
カンボジアの地域研究で分かった、
暴政にも負けない人間の「身体知」
京都大学 東南アジア地域研究研究所
小林 知 教授

京都大学東南アジア地域研究研究所の小林知(こばやし・さとる)教授は、カンボジアの農村社会と宗教文化を研究する地域研究者だ。かつて同国で凄惨な虐殺を行ったポル・ポト政権の統治以後、民衆がどのように社会を再建していったか、長期に渡ってフィールドワークをもとに研究を進めてきた。

カンボジアでいったい何が起こっていたのか

「研究では『現場の本質』を理解することが何よりも大切」と語る小林教授は、現地語による住民との聞き取り調査を研究の基礎としてきた。

「研究では『現場の本質』を理解することが何よりも大切」と語る小林教授は、現地語による住民への聞き取り調査を研究の基礎としてきた。

「私が初めてカンボジアを訪れたのは、1994年のことです。いまから考えるとその時期にカンボジアに入ったのは、非常に貴重な体験でした。当時のカンボジアはまだ近代化されておらず、伝統的な社会風俗が色濃く残っていました。また、街を歩けば建物の壁に銃弾の跡を見つけるなど、ポル・ポト政権の支配が残した負の景観がそのまま存在していたのです」

小林知教授は、カンボジアの農村の文化と宗教を主な研究対象とする。初めてカンボジアを訪れて以来、四半世紀以上にわたって何度もカンボジアに長期間滞在し、農村文化と、現地の人々が篤く信仰する仏教の様相を観察、分析してきた。

東南アジアの国カンボジアは、温暖湿潤なモンスーン気候により育まれた豊かな自然と、アンコールワット遺跡に代表される文化遺産の国として知られている。観光業や工業を中心に、近年の経済発展はめざましく、2000年代に入ってからは多くの日本企業が工場を設立。中国やタイなどに続くアジアの生産拠点として、世界中の企業から注目を集めている。
一方でカンボジアは、1970年代に自国民の大量虐殺を行った、ポル・ポト時代の凄惨な歴史を持つ国でもある。ポル・ポトとは、1975年から79年に「民主カンプチア」と呼ばれる共産主義政権を樹立したカンボジア共産党の指導者の名前だ。

政権を樹立後、ポル・ポトは彼らが理想とする社会を実現するために、都市の住民を強制的に農村へ移住させた。また国民同士の密告を奨励し、仏教をはじめあらゆる宗教を禁止するとともに、前政権に関係する知識人を大量に殺害するなど、既存の社会や文化を破壊する極端な政策を次々に行った。「眼鏡をかけているだけで文化人と見なされ殺される」と言われたほどその弾圧は苛烈なもので、ポル・ポト政権下の4年間で虐殺されたカンボジア人の死亡者数については諸説あるが、少なくとも150万人にのぼると言われている。これは当時の国民のおよそ4〜5人に1人が自国政府に殺されたことを意味する。

わずか40年ほど前に存在したポル・ポト時代。国家によって国民が理不尽に殺される壮絶な日々を生き抜いた人々が、その記憶を保持しながら、どのようにして社会を立て直し、日常の暮らしを再建してきたのか。小林教授のカンボジア研究は、一般民衆の視点から、「ポル・ポト時代のその後で、いったい何が起きていたのか」という社会動態の全体像を解き明かしたいという思いから始まった。

現地語を学び、農村でのフィールドワークへ

小林教授がアジアに関心を持つようになったのは、1989年、高校3年生のときのことだった。
「その年の4月から6月に中国で天安門事件が起き、『何が現場で起こっていたんだろう』と感じたのがきっかけです。11月にはベルリンの壁が崩壊し、世界がそれまでと大きく変わっていく時代に入ったことを体感しました」

アジアや国際問題に関心を抱くようになった小林教授は、高校卒業後、大阪外国語大学に進学。中国について専門的に研究したいと考えたことから、中国語を学んだ。
そのころカンボジアは、現代につながる変化のときを迎えていた。ポル・ポト政権は1979年1月、ベトナム軍が進駐したことをきっかけに崩壊し、政権中枢の勢力、クメール・ルージュはタイ国境付近に逃走した。その後のカンボジアは10年近く、ベトナムの支援を受けた社会主義政権が国土の大半を支配下においたが、複数の勢力同士の内戦が続いていた。1984年公開の映画『キリング・フィールド』ではポル・ポト派による国民虐殺が克明に描かれ、世界中の人々がそれを見て衝撃を受けた。

しかしようやく1991年、パリでカンボジア和平協定が調印され、翌92年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が発足する。93年、国連の監視下で国政選挙が行われ、新政府が樹立すると、そこから国内の治安は安定化していった。
外国人にもビザが発給され、カンボジアへの旅行が可能になった94年、学生だった小林教授は、中国の広東省に留学していた。留学先の大学が休暇に入り、ベトナムをバックパッカーとして旅行しているとき、カンボジアにも足を運び、首都プノンペンとアンコールワットのあるシェムリアップを旅した。
「93年には、カンボジアに派遣されていた日本人文民警察官の車列が襲撃され、PKO協力法のもとで現地に派遣されていた日本人警察官が亡くなるという事件が起こり、日本でもカンボジアが大きな注目を集めていました。しかし、カンボジアの実際の状況は、映画『キリング・フィールド』やジャーナリストの本多勝一氏のルポルタージュなどで伝えられるぐらいで、実際に何が起こっていたかはよく分からなかったのです。私が初めてカンボジアを訪れた94年は復興の初期で、海外からの援助もほとんど入っておらず、またポル・ポト時代との連続性が直接に見える最後の時代だったと思います。現在カンボジアに行っても、ポル・ポト時代に生じた出来事の痕跡を見ることはほとんどできません」

調査時のカンボジア地域社会では、手押しのトラクターなどの農機具も普及しておらず、農作業は畜力に頼って行われていた。(撮影 小林知教授)

調査時のカンボジア農村では、手押しのトラクターなどの農機具が普及しておらず、農作業は畜力に頼って行われていた。(撮影 小林知教授)

初めて足を踏み入れたカンボジアの自然豊かな地で、質朴な暮らしを営む農民たちの姿に惹かれた小林教授は、大学に戻ってから本格的に同国を研究の対象とすることを決めた。そして京都大学の博士課程に進んだ1998年に首都プノンペンへ行き、学校で1年半ほどカンボジア語を学んだあと、カンボジア農村での本格的なフィールドワークを開始した。
「フィールドワークの場所に選んだのは、メコン川にもつながっている東南アジア最大の湖、トンレサープ湖にほど近いエリアの農村です。トンレサープ湖は雨季になると乾季より湖水面積を4倍ぐらい拡大させます。その湖の周期的な拡大と縮小に合わせて暮らしている地域の住民の生活を見てみたかったのです。ちょうど都市部以外のカンボジア国内の治安が良くなってきたこと、それまで研究者がほとんどその地域の農村に入っていなかったことも、同地を研究対象に選んだ理由でした」

研究に必要な「鈍感力」による相互理解

小林教授が入った村には148戸の家があり、900人ほどの住民が暮らしていた。小林教授はその家一軒ずつを訪れ、住民一人ひとりにインタビューをして、何を生計の手段としているのか、いつからここに住んでいるのか、周囲の親族は誰かなど、聞き取り調査を行っていった。
「といってもこちらが話せるカンボジア語は、小学校低学年ぐらいのレベルですから、住民には子ども扱いされるんです。『いったいこいつは何を言ってるんだ?』と笑われたりもしますが、そういう場合も出来るだけへっちゃらな装いを続けて、同じような質問を何度も何度も繰り返す必要があります。そのときの経験から、文化人類学的な調査には対象を精緻に見極める繊細さと同時に、一種の『鈍感力』と『体力』が求められると学生にはよく話しています」

3ヶ月ほどかけてすべての住戸の調査を終えるころには、村落に住む人々のほぼ全員の顔と名前を覚えるとともに、関係性もだいたい把握できるようになった。調査村で小林教授が暮らしたのは、村の有力者の家だった。その家の末息子が当時、日本に国費留学生として滞在しており、それがきっかけとなってフィールドワーク中の衣食住の場所を与えてもらえることになったという。
「滞在中は、ホストの家の広い板の間の部屋の片隅に安物のテーブルと椅子を置かせてもらい、そこでその日に行ったインタビューの内容をノートに清書していました。ところが、その家には当時珍しいビデオデッキとテレビがあったので、近隣の人たちが集まってタイのメロドラマや中国の時代劇の吹き替えビデオ番組を毎晩見てるんです。わいわい言いながらテレビを見てる大勢の人の隣りでノートを取るのも大変だったので、隣の家に住む、ホスト家族のお母さんの妹さんの家に移れたらいいな……と、ある人に相談したら、その人が家のお父さんにそのまま言っちゃったんです」

2000年代初頭のフィールドワークで取っていたインタビューメモ。対象とした農村地域に遍在する30余りの寺院を訪ね、僧侶に聞き取りを行った。

2000年代初頭のフィールドワークで取っていたインタビューメモ。対象とした農村地域に遍在する30余りの寺院を訪ね、僧侶に聞き取りを行った。

ホストのお父さんは「せっかく面倒を見てやってるのに、俺の顔を潰す気か」と激怒し、小林教授はいったん逃げるように家を出ていかざるを得なくなった。
「でも1ヶ月ぐらいプノンペンに滞在しているうちに、『やっぱりあの家族にもう一回お世話にならないとダメだ』、と思い返したんです。それで、うまく受け入れてもらえるか不安で、胃痛や下痢に悩まされながらも戻りました。メンツを大切にする文化は、日本でもカンボジアでもどこでも同じだとつくづくわかりました」

再びホストの家で暮らすことになった小林教授は、しばらく食事のたびに「お、今日もうちの飯を食べるのか」とお父さんから小言を頂戴しながらも、ホストの家が仏教儀礼を主宰する度に、甲斐甲斐しく客人を案内したり、配膳を手伝ったりすることで、なんとか関係を再構築したという。
「今でもホストのお父さんは『カンボジアのお父さん』と呼んで、行くたびに挨拶しています。授業で学生にこの話をすると『そんな大変な目に合うこともあるんですか』と引かれますが、そういう人付き合いの苦労のなかでこそ相手の理解が進みます。それはフィールドワークの醍醐味のひとつなんです」と、小林教授は笑いながら振り返る。

圧政も奪えなかった民衆の「生きる力」

住民のインタビューは、生業や姻戚関係などの基本事項を聞くことを主としていたが、話をするうちに自然とポル・ポト時代のことに話題が及ぶことが多くあった。
「『私の父母がポル・ポトに殺された』とか、『あの家の主人はポル・ポトの兵士とうまくやって特別に面倒を見てもらっていた』などという話を聞くことは珍しくありませんでした。しかし、ポル・ポト時代後のカンボジアには、裁判でポル・ポトの犯した蛮行を断罪し、精算する力をもつ国家はなかった。社会の復興を支える経済力をもつ政府もなかった。カンボジアの民衆は、自分たちの努力によって生活を立て直し、社会を再建する必要に迫られたのです。ポル・ポト時代の記憶や心の傷に向き合いつつも、一日一日を生きる努力がまず必要だったのです」

ポル・ポト政権崩壊直後の1979年には、ポル・ポトら民主カンプチア政権の指導者に対する裁判が一応かたちだけは行われたが、それは当事者が出廷しないまま一方的に実施された一種の「政治劇」であったと小林教授は述べる。
ポル・ポトらに対する裁判は2000年代に国際法廷へと場所を移し、2011年には、1万4000人以上の政治犯を収容、処刑した収容所の所長に対して35年の懲役を確定させ、2014年には2名の指導者に無期懲役の判決を言い渡した。裁判がそれだけ長期化したのは、ポル・ポト政権自体が秘密主義を貫いたために、政策の決定過程がほとんど分かっていなかったためだ。

最近は、グローバル化が進む東南アジア農村における生業変容に関してもフィールドワークを積み重ねている。(写真は小林教授より提供)

最近は、グローバル化が進む東南アジア農村における生業変容に関してもフィールドワークを積み重ねている。(写真は小林教授より提供)

ポル・ポトは「理想の社会」を構築するために、現実の人間を機械のような「純粋な労働力」と見なした。その観念に基づき、食料を生産しない都市部の人間は強制的に農村へと移住を強いられ、「新人民」と呼ばれる「下級」の存在とされ、多くが命を失った。そのため、ポル・ポトらが敗走した後の首都プノンペンには、「持ち主が明らかでない土地や建物」が大量に発生した。当時の国内の人々は物質的には等しく貧しかった。でもしたたかな眼を持つ一部の者が、そうした無主の土地や建物を占拠し、住み始めた。先述の小林教授による村落調査のホスト家族も、そうしてプノンペンに家を持つようになった一人であったという。

「そういう目ざとさと行動力があるからこそ、財を築き、村の中で有力者になることができたということです。ポル・ポトが去ってすぐに、村にあった自転車を使って国境をまたぐ商売を始めた人々も調査村にはいました。自転車でタイ国境まで行って、サンダルや洋服などを仕入れて、今度は反対のベトナムの国境まで行ってベトナム人の商人にそれを売るんです。当時のベトナムは社会主義で商品の流通が制限された国でしたから、タイのものがよく売れた。それでずいぶん金を稼いだと話す人たちが村の中に複数見られました」
調査で聞くそのようなエピソードは、「約4年間にわたってポル・ポト政権がいくら非人間的な弾圧によって社会を改造しようとしても、民衆が持っている『生きる力』を根こそぎ奪い去ることができなかったことを示している」と、小林教授は言う。

身体化された仏教信仰の「鎖」

小林教授がカンボジアでの研究で重きを置いているテーマのひとつが「仏教」だ。カンボジアでは、スリランカや東南アジアのミャンマー、タイ、ラオスなどの国々と同じ「上座部仏教」が篤く信仰されている。
「上座部仏教の特徴は『出家』です。それらの国々では、日本の仏教とは違って男性の多くがある一定の期間、出家して僧侶となり、また還俗して社会に戻ってくる宗教文化が根づいていました。カンボジアの場合も、以前は男性の7〜8割は出家するのが普通でした」

仏教では僧侶の集団を「サンガ」と呼ぶ。上座部仏教で出家を希望する男性は、先輩の僧侶から戒律をもらうことで出家を果たし、サンガの一員になることができる。
だがポル・ポトの支配下のカンボジアでは、あらゆる宗教が禁じられた。仏教も例外ではなく、すべての僧侶がその立場を強制的に解かれ、還俗することを余儀なくされた。結果として、カンボジアのサンガは消滅した。先輩僧侶が戒律を与えることで成員を補充するサンガの伝統が、社会から失われてしまったのである。

小林教授はこのような経験をもつカンボジアの仏教を研究する理由を次のように述べる。
「上座部仏教を信奉する東南アジアの国々のなかで、カンボジアは、現代の歴史において仏教が完全に禁止された経験を持つほぼ唯一の国です。ポル・ポト政権下では、強制還俗という政策により、僧侶という存在が消滅した。社会に根づいたひとつの宗教が、国家により完全に禁止されるという強烈な経験の後、どのように人々がそれを再開させたかを知りたいと思いました」

ポル・ポト時代が終わってからも、カンボジアの仏教はすぐに以前の状況を取り戻したわけではない。「先輩の僧侶」がいない当時の国内では、仏像を僧侶に見立て、その前で誓いを立てることで出家を果たす動きもあった。またポル・ポト時代の後を継いだ政府は、クメール語を話す僧侶をベトナムのメコンデルタ地域から招聘して、公認の出家式を実施したりもした。

2000年代初頭の仏教寺院の新講堂の落成式の様子。カンボジアの寺院は、遺跡の跡地など、古くから聖なるエリアと考えられてきた場所に建てられることも多いという。(撮影:小林知教授)

2000年代初頭の仏教寺院の新講堂の落成式の様子。カンボジアの寺院は、遺跡の跡地など、古くから聖なるエリアと考えられてきた場所に建てられることも多いという。(撮影:小林知教授)

「カンボジアの上座部仏教は徐々に以前の姿を取り戻し、現在ではポル・ポト時代の前と変わらない様子で信仰活動がみられます。そのようにカンボジアで仏教が復活した理由は、宗教的なつながりが人々の身体の間に張り巡らされていたからだと考えられます。伝統的な習慣のようにして縷々と出家を体験した男性たちは、自らが仏教をつなぐ『鎖』の一部になっていた。3年8ヶ月の間にポル・ポト政権がどれだけ苛烈な弾圧を行い、宗教を禁じても、その鎖を完全に断つことはできなかった。それこそが、カンボジアの仏教の復活の基盤だったのです」

折しも今日の世界では、宗教や文化を巡っての対立がさまざまな地域で起こっている。厳格なイスラム法の解釈に基づく社会の実現を目指すタリバンが全土を掌握した最新のアフガニスタンの報道を見て、かつてのカンボジアでのポル・ポト政権の成立を思い起こした人は世界に少なくない、と小林教授はいう。
「民主主義と市場経済の浸透が進んでいるように見えたミャンマーも、今は軍事政権が強圧的に国民を抑え込むようになりました。カンボジアでも最近は、権威主義化が進み、人権や言論の自由が脅かされるような事態が生じています。私が研究者を志した1990年代には、アジアの各国で民主主義体制への移行が生じました。しかし、それらの国々の多くでいま、一種の過去への回帰が見られます。このような考えに基づき、さまざまな分野の地域の専門家と連携しながら、体制移行とは何だったのか、分析を進めていこうとしているところです」

文化人類学では、ある社会で何代も何十代も続いている、長年にわたって人々の骨肉にしみついた知識や生き方のことを、「身体化された知」と呼ぶと小林教授は言う。
「ポル・ポト時代以後のカンボジア社会を観察すると分かるように、身体化された知は、社会がどれだけの激動を経験しても、簡単に消え去ることはありません。しかし、万能でもありません。薄くなったり、別の知への代替が進むこともあります。カンボジアの地域研究を通じて、人間の生き方や社会の変化の普遍性と個別性について、考察を深めていきたいと思います」

 
小林 知(こばやし さとる)
京都大学 東南アジア地域研究研究所 教授
1972年長野県生まれ。96年大阪外国語大学外国語学部(中国語科)卒業。2005年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程を単位取得退学。同年、日本学術振興会特別研究員(PD)。2017年より准教授、2021年4月より現職。カンボジアを中心とした東南アジア農村でのフィールドワークに基づき、国家とコミュニティの関係、近代化とグローバル化のなかの農村変容、宗教をめぐる制度と実践などの課題の比較研究に取り組む。
 

京都大学 東南アジア地域研究研究所
https://kyoto.cseas.kyoto-u.ac.jp/

2017年、京都大学東南アジア研究所と、地域研究統合情報センターが統合して発足。東南アジア等の諸地域の自然と社会、その歴史的展開の理解を、より広く現代世界のさまざまな課題に立ち向かう指針へと連結させる地域研究を推進している。環境劣化、感染症や災害、民主化の停滞、経済格差や民族と宗教をめぐる抗争などのさまざまな国際的な問題を、現地のフィールドワークを中心に文理を架橋して研究を進める。

 

【取材・文:大越裕 撮影:楠本涼】

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