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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.10
遺伝子発現制御が切り拓く、がん治療の最先端
東北大学 加齢医学研究所
加齢制御研究部門 遺伝子発現制御分野 本橋 ほづみ 教授

1980年以降、日本で最も多くの人の命を奪ってきた病、悪性腫瘍「がん」――。
なぜがん細胞は際限なく増殖し、悪性化するのか?
そのメカニズムが、東北大学加齢医学研究所の本橋ほづみ教授らの研究により明らかになりつつある。
鍵を握っていたのは、私たちの細胞核の中、極小の世界で働く「転写因子」だった。

私たちの身体をつくる37兆の奇跡

私たちの身体は37兆個もの細胞でつくられている。いまこの瞬間にも新たな細胞が生まれ、古くなった細胞と置き換わっている。それらの細胞はまさに37兆の奇跡を、私たちが眠っている間にも起こし続け、私たちの身体を形づくっている。
しかし、私たちの社会にも時に「落ちこぼれ」がいるように、正常に働かない細胞も生まれる。その多くは修復、または排除されるが、時に野放しにされてしまうことがある。その細胞は異常な増殖を繰り返して悪性化し、周りにある組織や臓器を壊したり、正常な働きを阻害したりする。これこそが悪性腫瘍「がん」である。
東北大学加齢学研究所の本橋ほづみ教授は、生体がストレスを受けた際、細胞内でどのような応答が起きているかの研究に取り組んでいる。その過程で、がん細胞が増殖するメカニズムに迫りつつある。

実験にはマウスを使う。実験室には解剖のための道具、細胞の培養を行うための道具がところ狭しと並んでいる。

実験にはマウスを使う。実験室には解剖のための道具、細胞の培養を行うための道具がところ狭しと並んでいる。

腫瘍が悪性化してがんになるとき、細胞の中で何が起きているのか? ここでは視点を、私たちの細胞1つの中の、さらに中枢にある“核”の中の出来事に移す。
核の中には、身体の設計図とも言われるDNA(デオキシリボ核酸)が入っている。特定のタンパク質をつくる必要があるとき、まずDNAから、そのタンパク質をつくるために必要な情報が「メッセンジャーRNA(リボ核酸)」に“転写”される。すると、このRNAはその名の通り“メッセンジャー(伝令役)”として、核の外にあるタンパク質の合成工場「リボソーム」へと、転写した設計図を運んでいく。そして、「リボソーム」でタンパク質が合成される。
このように、DNAの情報によってタンパク質が合成される一連のプロセスを、遺伝子の「発現」という。そして、このメッセンジャーRNAへの転写を抑制・促進する特殊なタンパク質のことを「転写因子」と呼ぶ。
本橋教授は、「NRF2」と名付けられた細胞内の転写因子のひとつが、がん細胞の中で糖やアミノ酸の代謝を変化させ、がん細胞の増殖を促進することを発見した。

生体の守護者にして破壊者、ふたつの顔を持つ転写因子「NRF2」

図1.転写因子NRF2の働き 正常な細胞(左)において、NRF2は細胞内で分解され、働かなくなっている。しかし酸化ストレスなどの刺激が加わると核内へ移り、生体防御遺伝子群を活性化させることで、細胞はストレスへの抵抗性を獲得する。ある種のがん細胞では、NRF2が常に核内に蓄積し、悪性化に貢献する。

転写因子NRF2の働き。正常な細胞(左)において、NRF2は細胞内で分解され、働かなくなっている。しかし酸化ストレスなどの刺激が加わると核内へ移り、生体防御遺伝子群を活性化させることで、細胞はストレスへの抵抗性を獲得する。ある種のがん細胞では、NRF2が常に核内に蓄積し、悪性化に貢献する。

図2.がん細胞におけるNRF2と増殖シグナルの正のフィードバック 増殖シグナルを発する増殖細胞内(右)ではNRF2の機能は増強される。するとNRF2は、生体防御機構であるストレス応答による「抗酸化タンパク質」「解毒酵素」の生成に加え、「ペーストリン酸経路」「グルタミン代謝」などの代謝に影響を及ぼす。こうしたNRF2の機能亢進が、増殖シグナルをさらに増強するという正のフィードバックがかかり、細胞の増殖はさらに促進される。

がん細胞におけるNRF2と増殖シグナルの正のフィードバック。増殖シグナルを発する増殖細胞内(右)ではNRF2の機能は増強される。するとNRF2は、生体防御機構であるストレス応答による「抗酸化タンパク質」「解毒酵素」の生成に加え、「ペーストリン酸経路」「グルタミン代謝」などの代謝に影響を及ぼす。こうしたNRF2の機能亢進が、増殖シグナルをさらに増強するという正のフィードバックがかかり、細胞の増殖はさらに促進される。

不思議なことに、この「NRF2」は、普段は生体を健康な状態に維持するための「生体防御機構」の大事な担い手として働いている。
私たちの身体が活性酸素種や毒などのストレスにさらされたとき、NRF2は細胞核内に蓄積して転写因子としての機能を発揮し、「抗酸化タンパク質」や「解毒酵素」を生み出す。また、身体の大事な抗酸化物質である「グルタチオン」の合成を促す。こうして細胞をストレスから守ろうとする反応を、「酸化ストレス応答」と呼ぶ。
さらにNRF2は、増殖中の細胞でも重要な役割を果たしている。細胞が分裂後も機能し続けるには、分裂前の細胞が持っていた資源を2倍に増やす必要がある。DNA(デオキシリボ核酸)は細胞のなかでも特に重要な部品で、NRF2は、DNAをつくる材料となる「核酸」の合成を活性化する。
このように、NRF2は、私たちの細胞が正常に機能するよう見守る番人であり守護者であると言える。

ところががん細胞内では、普段は身体を守ってくれているはずの転写因子NRF2の働きが、マイナスの方向に作用すると、本橋教授は指摘する。
「がん細胞では、細胞の増殖を促すシグナルが常に強力に働き続けます。このときNRF2も活性化され、核酸が次々と合成されます。さらに、抗酸化物質であるグルタチオンの合成も促進され、がん細胞は強い抗酸化機能や解毒機能を獲得し、ストレスに耐えられるようになります。つまり、人間は自らの生体防御機構によって、がん細胞を増殖させ、生き延びさせてしまうのです」
こうした細胞内の動きは、本橋教授による肺がん細胞を用いた研究で明らかになった。また、東北大学大学院医学系研究科の鈴木貴教授らとの共同研究では、がん細胞でNRF2が活性化していると、肺がんや乳がん治療の予後に悪い影響が出ることが確認された。その他、さまざまながんで同様の報告がなされている。
本橋教授らの発見は、NRF2が活性化する代謝経路が、がんの増殖メカニズムにも深く関わっていることを明らかにした点で新規性が非常に高い。NRF2のこうした働きの解明は、今後抗がん剤の開発などにも大きく寄与することが期待される。

研究室にはそれぞれの研究テーマに没頭する学生が、時に本橋教授と肩を並べ、作業を続けている。

研究室にはそれぞれの研究テーマに没頭する学生が、時に本橋教授と肩を並べ、作業を続けている。

始まりは、耳だった

大学院時代の本橋教授の目は、マウスの耳を見つめていた。耳と言っても、内耳にある微細な感覚器官「蝸牛(かぎゅう)」の顕微鏡映像だ。本橋教授は耳鼻科の医師でもあり、大学院ではマウスの耳の形態学を研究していた。
「遺伝子に変異があると、生物の形態に変化が生じて耳が聞こえなくなる、ということはマウスの実験で分かります。しかしその先の疑問、遺伝子変異があるとなぜ形態に変化が生じるのかを理解するには、もっと別のアプローチが必要だと思いました。遺伝子の変異と形態の変化の間のメカニズムが知りたいと思い、遺伝子発現制御の分野へと進みました」(本橋教授)

本橋教授は、自身も実験に携わる。その研究者人生を通し、自分の手で、遺伝子発現の不思議と出会い続けている。

本橋教授は、自身も実験に携わる。その研究者人生を通し、自分の手で、遺伝子発現の不思議と出会い続けている。

本橋教授は、東北メディカルメガバンク機構の機構長をつとめる東北大学大学院医学系研究科の山本雅之教授と出会ったことをきっかけに、NRF2を含む「CNC-sMAF転写因子群」と呼ばれる一連の転写因子の働きの研究を始めた。以来、一貫して、これら転写因子の生化学的な性質と生体における機能の解明に携わってきた。最近では、「病気に関係した研究をしたい」と思い、CNC-sMAF転写因子群のなかでも、特にNRF2に着目し、酸化ストレス応答の仕組みに重きをおいた研究を行っている。

「遺伝子発現はとても面白いんですよ」と本橋教授は話す。NRF2は、通常時は「KEAP1」という「抑制性制御因子」によって細胞質内で分解され、機能しないようになっている。しかし私たちの身体が毒にさらされた時、細胞内でいち早くKEAP1はこの毒を感知する。するとNRF2が作動し始め、細胞に障害が生じないように抗酸化作用や解毒作用を強めるという。
「KEAP1は反応性が非常に高く、一般的なDNAやタンパク質よりも先に反応し、NRF2を機能させます。つまり毒のセンサーのようなものなんです」
本橋教授は細胞内で繰り広げられる巧妙な遺伝子発現に、胸を躍らせる。

最近になって本橋教授は、自身の研究のルーツでもある耳にも、NRF2と深い関係を持つ病気があることを見出してきた。慢性的に騒音にさらされることによって発症する聴覚障害「騒音性難聴」や、加齢によって発症する聴覚障害「老年性難聴」などの疾患だ。
NRF2の量は遺伝子型によって決まるが、NRF2が欠損したマウスは、騒音性難聴になりやすいことがわかってきている。そしてNRF2を活性化させて酸化ストレス応答を強化すると、疾患が予防できる可能性もあるという。
「この研究が教えてくれることは、NRF2の遺伝子型によって、日常生活での注意点が変わるということです。NRF2が少ない人は、騒音やストレスにさらされると、その影響が大きく現れます。さらに病気になって治療する際にも、NRF2の量が少ないと薬の副作用も出やすくなることが予想されます。NRF2の遺伝子型は、医療の現場でこれから利用していける重要な情報だと思っています」(本橋教授)

時に好奇心に心踊らせながら、転写因子NRF2について話す本橋教授。その眼差しは常に、遺伝子の不思議をまっすぐに見つめていた。

時に好奇心に心踊らせながら、転写因子NRF2について話す本橋教授。その眼差しは常に、遺伝子の不思議をまっすぐに見つめていた。

NRF2はアルツハイマー治療に光をもたらすか

NRF2のメカニズム解明は、がんや難聴以外にも、さまざまな治療に貢献する可能性が開けつつある。そのひとつが、アルツハイマー病だ。
「最近、アルツハイマー病は神経炎症だと考えられるようになりました。その際に、酸化ストレス応答が治療の鍵になるという報告が多数なされています。NRF2を活性化させ、酸化ストレスに対して強い状態にした方が、アルツハイマー病の改善に有効だろうという考え方はすでに出てきています。ストレス応答と高次脳機能の関係性に着目した研究も出始めています」

研究はシビアな挑戦の連続だ。研究室はその苦労をお互いに知り、それぞれに前進してゆく、運命共同体なのだ。

研究はシビアな挑戦の連続だ。研究室はその苦労をお互いに知り、それぞれに前進してゆく、運命共同体なのだ。

もうひとつが「多発性硬化症」だ。免疫系の異常により中枢神経に神経炎症が生じ、神経伝達が正常に行われなくなり、そのために突然目が見えなくなったり、手足に麻痺が生じたりする難病だ。その治療薬としても、NRF2を活性化させる化合物がすでに承認されている。
「NRF2が活性化すると、なぜ多発性硬化症の病状が緩和されるのかはまだよく分かっていません。私たちはそのメカニズムに大きな興味を持って研究を進めています。これらの難病の解決の鍵を握るのがNRF2であっても不思議ではないと考えています」
現在、本橋教授が所属する東北大学加齢医学研究所は、認知や学習といった高次脳機能に関する研究にも大きな力を入れている。「私たちがこれまで長年行ってきた酸化ストレス研究を、脳機能研究と融合させて、これらの病気の克服を目指したいと考えています」と本橋教授は言葉をつなぐ。

「どんどん寿命が伸びる社会が到来すれば、どれだけ健康で生きられるかが豊かさに直結します。そうした社会を支えるような医学を目指して、健康増進に深い関わりを持つNRF2の研究を進めたいですね」
本橋教授は、私たちの細胞核の中の、とても小さな世界の出来事に日々向き合っている。しかしその研究は、難病の治療法を生み出し、さらには未来の社会の豊かさを大きく変える可能性を秘めているのだ。

 

趣味は「多くはない」。それがつまり、研究者一筋の人生だ。

 

本橋 ほづみ(もとはし ほづみ)
東北大学 加齢医学研究所
加齢制御研究部門 遺伝子発現制御分野 教授
1990年東北大学医学部卒業、1996年東北大学大学院医学研究科修了、博士(医学)。筑波大学先端学際領域研究センター助手(分子発生生物学)、米国ノースウェスタン大学客員研究員、筑波大学先端学際領域研究センター講師(分子発生生物学)、筑波大学基礎医学系助教授(分子発生生物学)、独立行政法人科学技術振興機構ERATO山本環境応答プロジェクト・グループリーダー兼任東北大学大学院医学系研究科助教授(医化学分野)、東北大学大学院医学系研究科准教授(ラジオアイソトープセンター)を経て、2013年より現職。

東北大学加齢医学研究所

http://www.idac.tohoku.ac.jp/index.ja.php
加齢医学をその名に冠する国立大学法人唯一の附置研究所。加齢の基本的メカニズムの解明、認知症などの加齢脳疾患や難治性のがんを克服することを目標として研究に取り組む。主な研究分野は、遺伝子発現制御、遺伝子導入研究、生体防御学、基礎加齢研究、代謝制御、イン・シリコ解析研究、病態臓器構築研究、腫瘍循環研究、分子腫瘍学研究、腫瘍生物学、臨床腫瘍学、呼吸器外科学、神経機能情報研究、脳機能開発研究、機能画像医学研究、老年医学など。
〒980-8575 仙台市青葉区星陵町4-1

【取材・文:森 旭彦/撮影:原淵將嘉・梅原祐一】

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