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未踏の領野に挑む、知の開拓者たち vol.13
価格はいかにして決まるのか――ビッグデータが切り拓く経済学の最前線
一橋大学 経済研究所
阿部 修人 教授

価格は需要と供給で決まる――。学生時代にそう教わった人も多いだろう。
だが現実はそう簡単ではなく、価格がいかに決定されるかは、いまだ経済学の大問題となっている。
一橋大学経済研究所の阿部修人教授は、経済活動に即した価格決定メカニズムの解明に挑む。そのカギを握るのは、これまで主に企業がマーケティング分析に使ってきた販売情報の「POSデータ」だ。

価格を巡るマクロ経済学の論争

一橋大学経済研究所の資料室の一画。「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスの『WEALTH OF NATIONS(国富論/諸国民の富)』と、「供給は需要をつくり出す」という「セイの法則」を提唱したジャン=バティスト・セイの『POLITICAL ECONOMY』などが書棚に並ぶ。いずれも、“新古典派”に大きな影響を与えた。

マクロ経済学には大きく2つの流れがあり、長く論争を繰り返している。市場経済を重視する“新古典派”と、市場メカニズムには深刻な欠陥があり、政府の積極的な市場介入を支持する“ケインズ派”だ。
論争の背景には価格に対する見方の違いがあると、一橋大学経済研究所の阿部修人教授は指摘する。
「『価格は需要と供給で決まる』、すなわち価格が柔軟に変動すると考えるのが“新古典派”なら、“ケインズ派”は、価格は下がりにくい“粘着的(硬直的)”なものと考えます。価格の粘着性に対する評価の差が、両者を分かつ重要なポイントになっています」“新古典派”の言う「価格は需要と供給で決まる」とは、需給バランスが価格の変動によって調整されることを意味する。そうだとすれば需給は常に一致し、ギャップが発生することはないはずだ。ところが現実の経済活動では、商品が売れ残るケースがあり、“新古典派”の仮定とそぐわない。

対する“ケインズ派”はこの点に注目し、市場に需給ギャップが生まれる理由を、価格が「粘着的」で下がりにくいからだと考える。
価格メカニズムは完全には機能しない。価格はあるポイントで高止まりし、そのため需要が減少して需給にギャップが生じる。それが大きくなるのが「景気後退」の局面で、景気を再び浮揚させるには、政府の積極的な財政・金融政策が必要だとする。それが“ケインズ派”の見解だ。
ただ、この“ケインズ派”の見方も、必ずしも現実の経済活動に即しているわけではない。私たちの身の回りにある商品は、かなり頻繁に価格が変わっているからだ。

商品価格は、実際にどの程度、粘着的なのか――。マクロ経済学にとってもきわめて重要なこの問題は、長く本格的な研究対象となってはこなかった。それは、価格のデータを集めることが難しく、価格の変動過程を包括的に研究することが現実的に不可能だったからだ。
「価格の粘着性に対する研究が世界で本格的に始まったのは、情報技術の発達を受け、ようやく今世紀に入ってからのことです。2004年の米国の研究では、商品価格は平均しておよそ4ヶ月ごとに変更されていると発表されました。当時のケインズ型モデルでは、商品価格の変動サイクルは15ヶ月と想定されていたため、価格改定スパンの短さは大きな驚きを持って受け止められました」

この研究がもたらしたもうひとつの驚きは、商品種別によって価格粘着性が大きく異なることだと阿部教授は述べる。
「たとえば、コインランドリーだと価格の改定スパンが80ヶ月なのに対し、生鮮食品はほぼ毎月のように変更されています。それまでは、“ケインズ派”にしろ“新古典派”にしろ、『一財モデル』を用いた分析、すなわち、たったひとつの抽象的な“商品”の存在を想定していましたが、単一の“商品”に対する単一の“価格”で経済を描写するアプローチは、価格粘着性の分析に適していないことが明らかになったのです。2004年の研究は、二重の意味で、従来のモデルの見直しを迫る結果となり、価格の粘着性に関する研究は、マクロ経済学における一大分野となりました」

一橋大学経済研究所が誇る「統計資料棟」の一室にて。古くからの国内外の統計資料が棚一面に並ぶ。

一橋大学経済研究所が誇る「統計資料棟」の一室にて。古くからの国内外の統計資料が棚一面に並ぶ。

経済学が扱う「ビッグデータ」

阿部教授らの研究グループは、価格の粘着性の研究に2006年ごろから継続的に取り組んでいる。扱うのは、それまで主に企業のマーケティング分析に使われてきた「POSデータ」だ。一国全体をカバーする大規模なPOSデータによる価格動向の継続的な研究は、当時としては「おそらく世界で初めて」だったと阿部教授は言う。
世の中には無数の商品があり、それらは売られている場所によっても値段が異なる。価格の粘着性に関する研究が本格化して10年ほどが経過した今も、価格のデータをどのように集めてくるかは大きな問題だ。
「POSデータ」を使えば、「いつ」、「どこで(どの店で)」、「何が(どの商品が)」、「いくらで」、「何個」売れたのかを把握することができる。阿部教授によれば、「POSデータ」の利点は、膨大な数の商品について日毎の価格変化を追跡できること、そして、販売数量の情報を得られることにある。この研究は、情報技術の発展により、膨大なデータ(ビッグデータ)を短時間で処理できるようになったからこそ実現できたと言えるだろう。

「POSデータ」の解析にコンピュータは欠かせない。毎週1ギガバイトほどのデータが研究所内のサーバーに送られ、さまざまなツールを使って解析する。

「POSデータ」の解析にコンピュータは欠かせない。毎週1ギガバイトほどのデータが研究所内のサーバーに送られ、さまざまなツールを使って解析する。

「POSデータ」を使う優位性は、それ以外の価格データを用いた先行研究と比べれば明らかだ。最初期の研究では、研究者が独自に店舗ごとの価格データを集めていたが、マンパワーには限界があり、マクロ経済全体を見渡すことはできなかった。
2004年の米国の研究で使われたのが、政府機関による価格調査、「消費者物価指数(CPI:Consumer Price Index)」のデータだ。多くの国の政府機関で、経済全体の物価の動向を測る指標として採用されており、手堅いデータを得られるが、それでも限界はあると阿部教授は指摘する。
「CPIでは、たとえばパスタならパスタで1,000種類近い銘柄のうち、代表的な2つの銘柄しか調査対象になりません。調査が行われるのも月に一度に限られていて、CPIが価格の実態をどこまで反映しているのか、かねてから疑問視する声がありました」
「POSデータ」を使えば、商品コード(バーコード)がついているすべての商品の、日次の価格の動きを追跡することができる。パスタだけで1,000種類近い銘柄の、日々の価格の動きを知ることができるのだ。これは、価格の動きの実態を突き止めるうえで大きなポイントと言えるだろう。裏を返せば、商品コードのない高額耐久消費財や生鮮食料品のデータを扱えないこと、調査対象店舗がPOSレジを導入している店舗に限られることが「POSデータ」の弱点だが、商品の網羅性の観点では、CPIを圧倒する。

阿部教授らが「POSデータ」にもとづいて作成した物価指数、「SRI一橋単価指数」の提供開始をアナウンスする記者会見(2015年3月に実施)の様子。

阿部教授らが「POSデータ」にもとづいて作成した物価指数、「SRI一橋単価指数」の提供開始をアナウンスする記者会見(2014年7月に実施)の様子。

さらに阿部教授は、販売価格と販売個数の関係から、価格の変動が販売個数にどう影響するかを調べられることも大きな利点だと付け加える。
「CPIでは、一週間以内で変化する“特売価格”が、例外的な価格として調査対象から除外されています。けれども、“特売”が売上の多くを占めるのであれば、それも調査対象にすべきでしょう。私たちは、POSデータを使った研究によって、売上に占める“特売”の比率は35~40%にものぼることを突き止めました。従来は価格に影響を与えるデータとして考慮されてこなかった“特売”ですが、経済取引上、重要な意味を持っていることを明らかにすることができました」

阿部教授らの研究グループは、「POSデータ」にもとづく研究成果を社会に還元するため、2014年から「SRI一橋大学消費者購買指数」という物価指数を公表している。2015年5月には、新たに「SRI一橋単価指数」の公表を始めた。
後者の特徴は、新商品の価格動向を含めて物価を測っていることにある。価格の変動を調べる難しさのひとつは、同じ商品でなければ価格の比較ができないことにある。従来の指数は、新たに店頭に並んだ商品の価格データを扱うことができなかったが、その点に改良を加えた。そのニュースは、日本経済新聞や、経済・金融情報を配信するブルームバーグで報じられた。

POSデータが明らかにした事実

上のグラフは震災前を「1」とした場合の家計支出の変化を、下のグラフは、年初の価格を「1」としたときの価格の変化を示す。太い実戦が東京の動きをあらわしている。横軸の数字は週番号で、「11」とあるのが2011年3月11日の週。支出は震災時に大きく跳ね上がっているが、価格が上昇するのはそれより遅れ、店の棚から商品がなくなるほどの品不足に陥った割には、価格の上昇幅は5%ほどと小さい。

上のグラフは震災前を「1」とした場合の家計支出の変化を、下のグラフは、年初の価格を「1」としたときの価格の変化を示す。太い実戦が東京の動きをあらわしている。横軸の数字は週番号で、「11」とあるのが2011年3月11日の週。支出は震災時に大きく跳ね上がっているが、価格が上昇するのはそれより遅れ、店の棚から商品がなくなるほどの品不足に陥った割には、価格の上昇幅は5%ほどと小さい。

阿部教授らの研究グループは、これまでに「POSデータ」からさまざまなことを突き止めてきたが、ここでは印象的な2つの事例を紹介しておこう。
ひとつは、2011年3月11日に発生した東日本大震災後の、首都圏での価格動向だ。震災発生直後、福島第一原発事故の発生と相まって、首都圏のスーパーマケットやコンビニの棚から、食料品や生活用品、ミネラルウォーターなどが消えたことを覚えている人も多いはずだ。
「このとき首都圏では、深刻な物不足が発生していました。“新古典派”の見解に従えば、価格の上昇によって需給がただちに調整されるはずですが、現実の価格の動きは必ずしもそうはなりませんでした。POSデータは、震災が発生した1週間で、東京の家計支出が急増したことを示しましたが、価格が上昇を示すのはそれから2週間遅れました。また、物不足の深刻さと比べれば、物価上昇率もきわめて穏やかです」
さらにこのときの値上げは、定価の改定ではなく“特売”の実施頻度を減らすことによるものであることも明らかになった。“特売”は売上の3分の1以上を占め、価格として無視しえないだけではなく、頻度や値下げ幅の調整によって、需給を部分的に調整する働きをも担っているのだ。

もうひとつの事例は、2014年4月1日の消費税増税前後の消費動向だ。POSデータによれば、同年3月最終週、購買支出は、前年同期比で24%も増えた。すなわち、いわゆる増税前の「駆け込み需要」が発生したわけだが、データを詳しく分析すると、意外な事実が見えてきた。
「駆け込み需要の本質は、生活用品のように保存ができるものを買い溜めることにありますが、増税前に購買支出が増えたのは、必ずしもそれが理由だったわけではありません。むしろ、この時期に購買支出を伸ばした大きな要因は、新商品が多く投入されたことにあると考えています。増税前に商品を買い溜めしようと店舗に駆け込んだ消費者が、従来と異なる商品を、一時的にせよ買うようになった影響が大きいのです」
それには、日本の商品開発の頻度の高さが関係していると阿部教授は指摘する。
「私たちの研究では、日本で出回っている商品のおよそ半数が一年で入れ替わり、売上ベースで見ても、新商品がおよそ3分の1を占めます。他国との詳細な比較研究はまだありませんが、国外の研究者と話している感触では、これは極めて高い数字です。日本でなぜ、新商品の開発頻度が高くなるのか、その理由を突き止める研究に取り組んでいます。値上げを嫌う企業が、分量を減らして価格を維持するなど、実質的な値上げを行うために新商品を投入しているという仮説を立てていますが、商品開発にもコストはかかるわけで、他に合理的な理由があるのではないかと、企業へのヒアリング含めて調査を進めています」

思いは語らず、研究の積み重ねで「良き社会」を目指す

提供する物価指数データに関して、その将来予測やマクロ金融政策の効果など、マスコミから様々な質問が来るが、そうした「解釈」は学術論文以外ではしないことにしている。それがモットーだが、もちろん内に秘めたる思いはある。「手掛けた論文を読んで、分かる人がそれを感じ取ってくれればいい」

提供する物価指数データに関して、その将来予測やマクロ金融政策の効果など、マスコミから様々な質問が来るが、そうした「解釈」は学術論文以外ではしないことにしている。それがモットーだが、もちろん内に秘めたる思いはある。「手掛けた論文を読んで、分かる人がそれを感じ取ってくれればいい」

阿部教授はもう10年近く、「POSデータ」と向き合い続けてきた。
「POSデータは、いわば熱帯雨林のジャングルのようなものです。データを分析していると、それまで見たことがない面白い現象を次々と発見することができますが、面白さに引きずられているとすぐに道に迷い込んでしまいます。大きな目的を見失わず、博物学的なデータ収集趣味に陥らないよう気をつけています」

阿部教授が目指す「大きな目的」とは、「商品価格というミクロなデータにもとづいてマクロな経済モデルを検証し、より現実に即したモデルを構築すること」。
「商品価格がいかにして決定されるかは、マクロ経済学のみならず経済学全体の根本問題です。これまでの経済学は、研究技術の限界から、価格決定メカニズムをかなり単純化して捉えていましたが、それを精緻に捉え直すことが当面の目標です」

阿部教授がマクロ経済学を志したいきさつも印象深い。
「学生時代、ラテンアメリカ各国で社会主義政権の政策が破綻し、ハイパーインフレに陥るのを目の当たりにしました。人民のためを思って成立したはずの政権が、政策運営に失敗して国民経済を破綻させたのです。当たり前と言えば当たり前ですが、経済原則を無視した政策というのは成り立たないとこのとき痛感し、マクロ経済学を志すようになりました」
だが、と言うべきか、だから、と言うべきか、阿部教授は、自分たちが提供する物価指数に意味付けを行うようなことはしない。
「“経済”の語源は、『経世済民』、『世を経(おさ)め民を済(すく)う』という中国の言葉にあります。それが示すように、経済学者であれば誰しも少なからず、『良い社会をつくりたい』という思いを持っているはずです。ですが、ラテンアメリカの社会主義政権の善意の政策がマイナスの結果をもたらしたように、思いだけで良い社会をつくることはできません。学術の立場でできることは、疑いようのない事実を積み重ね、良い社会をつくる道具を揃えていくことです」
膨大な「POSデータ」から価格の実態に迫り、経済モデルの再構築を目指す――。思いを前面に出さないという確たるポリシーを胸に、阿部教授は、無数の価格データと向き合い続ける。

 

趣味の写真は高校時代から。大砲のニコン80-400mmのズームレンズで、学内に訪れる野鳥を撮影する。

 

阿部 修人(あべ なおひと)
一橋大学 経済研究所
教授
1993年3月一橋大学経済学部卒業、1995年3月同大学大学院修士課程修了。1999年8月から米国ブルッキングス研究所で研究員を務め、2000年5月に米国エール大学大学院にて博士課程を修了(Ph.D.)。同年6月に一橋大学経済研究所に専任講師として着任、助教授(のちに准教授)を経て2011年4月より現職。

一橋大学経済研究所

http://www.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/
1940(昭和15)年、一橋大学の前身である東京商科大学にて、「日本及び世界の経済の総合研究」を行うことを目的に設立された「東亜経済研究所」に端を発する。1949年、新制大学発足とともに現在の組織となり、2015年時点で「経済・統計理論」、「経済計測」、「比較経済・世界経済」、「経済制度・経済政策」、「新学術領域」の5つの研究部門と、「社会科学統計情報研究センター」、「経済制度研究センター」、「世代間問題研究機構」、「経済社会リスク研究機構」の4つの附属施設を有する。

【取材・文:萱原正嗣/撮影:カケマコト】

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