東京大学東洋文化研究所・西アジア研究部門の森本一夫教授の研究テーマは「ムハンマド一族」だ。イスラーム教の開祖であるムハンマドの一族を称す人びとは、古くから世界中のムスリム(イスラーム教徒)の間に広がり、各国の政治や文化に影響を与え続けてきた。この研究テーマに関する世界での「唯一人者(ゆいいつにんしゃ)」と自ら称す森本教授は、「イスラーム研究に『ムハンマド一族の血統』という補助線を引き、新たな視点をもたらしたい」と語る。
世界に18億人もの信徒を擁するとされるイスラーム教。その数は増大を続け、2070年ごろにはキリスト教徒の数を超え、世界最大の宗教になると予想されている。その開祖であり、ムスリム共同体の最初の政治的指導者でもあったムハンマドの一族を称す人びとについて、研究を続けているのが東京大学東洋文化研究所の森本一夫教授だ。
「ムハンマドの一族を称す人びとは、現在のモロッコ、ブルネイ、ヨルダンの王家などの支配層から物乞いにいたるまで、さまざまな社会階層、国、民族にまたがって暮らしています。正確な統計はありませんが、おそらくムハンマドの一族とされている人びとは、世界のムスリムの間に数千万人はいるでしょう」
イスラーム教は「神の前に人はすべて平等」を理念とするということがよく言われる。しかしそれと矛盾するようだが、「ムハンマド一族の系譜」につらなるとされる人びとは古くから各地で尊崇を受ける対象となっている。そして、その「血統の正統性」を証明する「系譜学者」と呼ばれる人びとが各地に存在してきた。系譜学者自身、その多くがムハンマドにつながる血統をもち、各地を旅しては一族を名乗る人びとを訪れて聞き取りをし、系譜をまとめていった。
「ムハンマド一族に属すからといって、それだけでムスリムのあいだで何か決定的な地位が得られるわけではありません。表面的には、集会での席順を決めるといったときに優先されるくらいの話に見えるかもしれません。しかし、社会の中での色々なせめぎあいに際して、この血統はそれをもつ人に広く有利に働いてきました。ムスリム社会ではムハンマドの血統が常に伏流し、ある種『当たり前』の存在だったがゆえに、それを正面から対象とする研究もほとんど行われてきませんでした。私がこの研究の『世界第一人者』ではなく、『世界唯一人者』を自称するのもそれが理由です」
ムハンマドにつらなる血統を名乗ることで「政治的な正当性」を得ようとする行為は、現在でも珍しいことではない。近年では、イラク大統領の座に長く就き、アメリカとの戦争を経て死没したサッダーム・フセイン大統領や、2011年に殺害されたリビアの指導者カダフィ氏がムハンマド一族に属すと自称し、一族が組織する団体からの認可も得ていた。また、シリアとイラクにまたがる広い領域を支配し、世界に衝撃を与えた「イスラーム国」の「カリフ」アブー・バクル・バグダーディーも、ムハンマドの直系の子孫を名乗っている(た)。
「イランの元大統領であるモハンマド・ハータミー氏も、ムハンマドの直系の子孫とされています。ところが、彼が初めて大統領に選ばれた1997年の選挙のときに、ライバル陣営がハータミー氏の血統は怪しいという宣伝を始めたのです。するとハータミー氏は、翌日には自分の系図を書いたポスターをつくってテヘランの下町で配りました(写真参照)。これは、現在のイランでは、ムハンマド一族の血統が選挙においてさえ意味をもつことを示していると思います」
森本教授は、9世紀から15世紀頃のイランやイラクで書かれたものを中心に、系譜学者たちが残した文献を解読している。系譜学者たちの重要な仕事は、「確かにこの人物はムハンマド一族の一員だ」というお墨付きを与えること。誰がムハンマド一族に属すかは、彼らを保護する立場にあった王侯貴族にとっても重要だったので、彼らの宮廷を訪れ、そこで血統を審査することも彼らの「ビジネス」の一部だった。当然、系譜学者は「この人物は偽者である」という裁定もくだしていた。
「ムハンマド一族の血統を称す人たちの間には、ある時点で新たに血統を称すようになった人たちが含まれます。そうした人たちのなかには、自覚的に嘘をついている人もいれば、自分の血統を心から信じていると考えられる人もいます。たとえば、いまのイランでの話ですが、ある一家の子どもがパン焼き窯に落ちたのに、火傷ひとつ負わずに助かったという事件がありました。それが、『この子が助かったのは、神のご加護があったからに違いない』『そういえば、この子のおばさんの背中にある痣(ほくろ)は、ムハンマドさまの一族によく見られるという例のあれではないか』『ということは、うちの家系にはムハンマドさまの血が入っているに違いない』という展開をたどったのです。そんな理由でムハンマド一族を名乗り始め、周囲の人びとも自然とその家族をムハンマドの一族と見なすようになった例も少なくないと考えられます。
森本教授の研究は、基本的に文献から得られる情報の分析にもとづいている。それらの文献は、出版されているものもあれば、イランやトルコ、あるいはイギリスといった世界各地の大学や図書館に所蔵されている手書き本であることもある。ときには、ムハンマド一族を称す人を訪ねてインタビューをすることもある。
森本教授は、東南アジア最大のイスラーム教国インドネシアでのそうした現地調査は、特に印象深かったと語る。
「インドネシアに住むムハンマド一族を称す人たちは、18世紀以降にイエメン東南部から移住した人びとの子孫が中心です。世代を経て混血がかなり進んでいますが、今も顔つきから現地人のジャワ人とは異なるような人たちが少なくありません。インドネシアのイスラーム化をめぐる言い伝えでは、15〜16世紀にジャワ島にやってきた9人の聖者が決定的な役割を果たしたとされており、同国のムハンマド一族を名乗る人びとは、その九聖者(ワリ・ソンゴ)全員がムハンマド一族だった、つまり自分たちと同じ血統をもつ人たちだったと主張しています。彼らは今も九聖者が祀られている聖廟を管理しており、そこに国中からやってくる巡礼客が、彼らにとって重要な収入源となっています」
インドネシアのムハンマド一族の人たちは今も、かつての系譜学者の働きを彷彿とさせるかのように、自分たちの血統の管理を厳格に行っている。イエメン東南部出身のムハンマド一族の人びとが広まった範囲は、東南アジアから東アフリカのタンザニアにまで、広くインド洋世界を覆っており、多くの国境が彼らの移動を阻むようになったいまも、彼らの間には確固とした同族意識が残っているという。
森本教授が「ムハンマド一族の研究」を始めたきっかけは、イスラーム研究を志した1990年代初頭にさかのぼる。
「当時の日本のイスラーム研究では、西洋文明の圧倒的な影響から日本を解き放つものとしてイスラームを捉える考え方が大きな力をもっていました。日本は、歴史をつうじて中国や朝鮮半島から文化的な影響を受けてきた国です。しかし幕末、明治維新後の日本社会では、欧米諸国に追いつき、それと対抗しようとするなかで、西洋中心的な思考法や価値観が中心となりました。それでも結局のところ、日本は西洋にはなれないのです。そうした状況に違和感を抱き、西洋を相対化して捉えたいと願うとき、もう一度東アジアという文脈に戻るのではなく、西洋と真っ向から対峙し続けた文明としてイスラームを研究しようという機運が高まりました。私の先生たちの世代、1980年代から90年代にかけて日本のイスラーム研究が急成長した際には、そのようなアプローチが声高に謳われていたと思います」
そのようなアプローチは、ともすれば「イスラーム」を一枚岩のような強固な実体と捉え、そこで暮らす一人ひとりの人間の存在を忘れがちとなる。そして、近代化以降、西洋と非西洋(アジア)のあいだで揺れ動く自分をいまだに捜しあぐねている日本では、そこに独特の理想化が加わると森本教授は語る。
「私自身も若い頃は『イスラーム万歳』的な考え方に染まっていました。しかし、たとえば『イスラーム共和国』という独特な政体をとるイランに1996年から98年にかけて留学したりした際に見聞きした、生きたムスリムが営む現実の「ムスリム社会」は、それまで観念的にバラ色に思い描いていた『イスラーム社会』の姿とは大きく違っていました。人びとが生きる上での営為やそこに渦巻く欲望は普遍的であり、イスラームはそこに乗っかった『ローカル・ルール』に過ぎないと捉えることもできるんじゃないかと感じるようになったのです。それ以来、私は人間というものが社会を作り、互いにやりとりをしながら生きていく様子を観察する場、あたかも一つの『実験の場』であるかのようにムスリムが作り出してきた諸社会を捉えるようになり、『イスラーム史研究』『イスラーム研究』はしているものの、そこで自分が研究している対象は、突きつめて言えば人間そのものだと考えるようになりました」
こう聞くと、もはやイスラームにこだわる必要はないのではないかと思われてもくるが、それに対して森本教授はこう言う。
「確かにその質問には一理あります。しかし、私は同時に、『ローカル・ルール』は『ローカル・ルール』としてその意義をしっかりと認め、それを理解しようと努めることには、そのことそれ自体に大きな意味があると考えています。現にその『ローカル・ルール』を奉じ、それに誇りを感じている人たちが世界には生きているのです。彼らとそれ以外の人びとのつきあいということを考えても、やはり『イスラーム理解』は外せません。同時に、残念ながら私は天才ではありません。色々興味はあっても、いま、こうしてアラビア語やペルシア語の手書きの文献を曲がりなりにも扱えるようになったようには、ラテン語の文献も、漢文の文献も、サンスクリット語の文献も読むことができないのです。話すということになるとさらにまた先の話です。世の中にはそうしたことをこなせる大変な才能をもった人もいるのでしょうが、私自身は、天才の仕事は天才に任せるしかないと思っています」
ムハンマド一族の研究をすることは、イスラームを説明する際によく用いられ、この頃ではイラクやシリアについての報道でもよく耳にする「シーア派」と「スンナ派」という枠組みについての理解を深め、相対化することにもつながる。
シーア派とは、ムハンマドの父方の従兄弟かつ娘婿であるアリーとその特定の子孫を、ムハンマド死後のムスリム共同体の正統な指導者として認める宗派だ。ムハンマド一族の血統に重きを置く宗派と言うことができる。対するスンナ派は、ムハンマド死後の共同体を実際に指導した長老たち、つまり共同体内での互選によってアリーに先だってカリフ(後継者、代理人の意)となった3人の正当性を認めるところからはじめ、ムスリム共同体の指導者がムハンマド一族の血統をもつことを重視しない。むしろ、共同体の合意によって選ばれた適任者が指導者であるべきであると考える(これは、後には建前に過ぎなくなる)。
この見方からいくと、シーア派はムハンマド一族一般の血統を重視し、スンナ派は軽視すると考えられそうなものである。
「しかしムハンマド一族一般をめぐる歴史を調べると、彼らに対する態度は、シーア派はこう、スンナ派はこうという具合に宗派単位で考えるべきものではないことがすぐにわかります。例えば、ムハンマド一族に属す人物のものとされる廟をシーア派、スンナ派両派の人たちが詣でるのはごく普通のことです。共同体の指導者をめぐる議論とムハンマド一族一般についての議論は、深く関係はしているのですが、切り離して考えないといけません。そしてここで面白いのは、両宗派に属す人びとの交流の様子を見ていくと、交流のなかでの両派のせめぎあいの様子もまた視野に入ってくることです。例えば、中央ユーラシア出身のトルコ系、モンゴル系支配者が当時のイスラーム世界東半を広く支配し、宗派間の関係などが流動的になっていた13~14世紀頃、評価の高かったムハンマド一族専門の系譜学者たちはイラクのシーア派の人たちだったのですが、彼らがムハンマド一族についての知識を売り物にして、スンナ派を掲げる遊牧民出身のそうした支配者たちの宮廷に食い込んでいっていたことがわかります。私は、そこにムハンマド一族に対する尊崇というスンナ派との共通点を通じて自派の影響力を増そうとした、シーア派共同体の戦略を見ることができると考えています」
森本教授の指導を受けている大学院生の水上遼さん(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍)は、シーア派とスンナ派の交流の歴史について研究している。「研究を行うときは、歴史史料を『狂う』ほどに読み込みなさいと森本先生にアドバイスされます」と水上さんは語る。
「1300年頃に生きていたあるイスラーム学者の遺した書物を読んでいると、自分が有力者にいかに重用されているか、いかに多くの著名な学者たちと友人、師弟関係にあるかが、繰り返し強調されていることに気がつきました。その学者は直前にモンゴル帝国の侵入で家族や友人、師を失っていたので、新たな人間関係を必死に築き上げ、それを周囲の人びとに強調することでその時代を生き抜こうとしていたのでしょう。歴史史料を深く読み込むなかでそんな思いが行間から伝わってくる記述に巡り合ったときは、数百年前の異国に生きた人物の人生が、眼前に浮かび上がってくるような気がします」(水上さん)
ムハンマド一族の系譜に関して、第三者的な視点から見ていて興味深く感じるのは、彼らの系譜がアラブ起源の考え方にしたがって「男系」を基本とするにもかかわらず、一族の核をなすムハンマドの直系の子孫たちが、自分たちは「ムハンマドの娘」であるファーティマを通じて彼につらなると主張していることだ。ムハンマドには2人の息子がいたが、いずれも早世し、子孫を残していない。
「アリーと結婚したムハンマドの娘ファーティマの子孫が、ムハンマドの正統な直系子孫と見なされています。それは決して当たり前のことではないのですが、ムハンマド自身が『ファーティマの子孫は私の子孫だ』と述べたという言い伝えを根拠に、例外として認められるべきだという主張がされてきました。しかし、面白いことに、時代が下ると『そもそものファーティマが女性なのだから、母親だけがムハンマドの子孫である者もムハンマドの子孫を名乗っていいはずだ』と主張する人びとが出てきて、実際、母方だけがムハンマド一族である人物もムハンマド一族を名乗ることが認められていた地域、時代もかなりありました」
血統によって何がしかの権力を得たり、自分の地位の正当性を周囲に認めさせたりすることは、多くの国や文化で見られる「普遍的で人間くさい営為」だと森本教授は言う。
「近年では、ムハンマド一族を称す人たちが作った任意団体がDNA鑑定によって自分たちの血統の正しさを証明しようとした、などという話が聞こえてきます。しかし実際にやってみた結果がどうだったかは積極的に喧伝されるわけではないようです。現在の検査法では、父系のみ、あるいは母系のみをたどることはできると思いますが、途中でそれが組み合わさっている場合はお手上げでしょう。先に説明したように、母方からの血統がかなり広く認められていた過去があることを踏まえると、DNA鑑定でどうにかなると考えるのは、かなり難しいことなのではないでしょうか。そもそも―これは全く別の話題ではあるのですが―一人の人間の両親の数は、世代が一つ遡るごとに2の乗数で増えていきます。ムハンマド一族を称す人びとがもつ系譜は、現在大体40世代強の長さがありますが、40世代遡れば、祖先の数は、単純な計算の上では10兆人以上いることになります。現実には、ある人の先祖の広がりを描いた図の色々な場所に同じ人が繰り返し現れることになりますし、ムハンマド一族が守ってきた一族内での結婚という慣習も考えないといけないので10兆人ということにはならないわけですが、それでも、こういう観点から言えば、ムハンマドの子孫を名乗る人に流れている預言者の『血』は、かなり薄いものだというのは確かでしょう。それにもかかわらず、ムハンマドの一族の人たちは、自分たちの系譜を誇りに思い、やれ父方だけだ、母方もありだなどとやりあいながらも大切にし続け、長きにわたって生き続けてきた。そんな彼らの営為の『人間くささ』が、この研究の面白いところだと感じています。ただ、あえて繰り返したいのですが、この『人間くささ』自体は彼らが人間だから出てくる『くささ』なのであって、彼らがムスリムだからとかイスラームのローカル・ルールにしたがっているからとかいう理由で出てくるものではありません。研究対象がムスリムであることによって出てくるのは、その「くささ」の微妙なニュアンスの違いでしょう。もっとも、そのニュアンスを嗅ぎ分けるというところにも、この研究をやっていくうえでの面白さがあるのですが(「くささ」の連発ですみません…)」
ムハンマド一族研究の「世界唯一人者」を名乗る森本教授だが、国際的なイスラーム研究学界においても徐々にムハンマド一族が各地域で果たした役割に対する認識が深まってきており、2010年には、森本教授自身を講師として、プリンストン大学で集中研究セミナーが開催された。「分野としてさらに発展して欲しいような、欲しくないような」と、森本教授は、はにかみながら「世界唯一人者」の「地位」に対する未練も見せる。
教授は、イスラームを「自己完結的なシステム」「西欧文明に対するアンチテーゼ」などと捉えるのではなく、「普遍的な人の営みの一つの現れ」として考えている。その研究は、ムスリム諸社会と歴史的に遠い距離にあった私たち日本人に、理解の助けとなる新たな視点を与えてくれることだろう。
東洋文化に関する総合的研究を目的として1941年に東京大学に設置。アジアのさまざまな地域の文化に、政治経済、歴史考古、宗教思想、文学美術、文化人類、社会学など多様な専門分野からアプローチする。アジア研究の国際的拠点としてInternational Journal of Asian Studies(ケンブリッジ大学出版会刊行)の編集を担うとともに、国際総合日本学ネットワーク(GJS)および東アジア藝文書院(EAA)の活動などを通して、世界のアジア研究者・研究機関との学術交流と共同研究、教育プログラムの開発、研究情報の発信を推進している。
【取材・文:大越裕/撮影:カケマコト】